最古層の詩句には、業・輪廻の思想は明確には現れてこない。しかし、当時一般に広まっていたこの思想は、ごく早い時期に仏教の中にとりいれられた。『スッタニパータ』でも第 3章には濃厚に現れ、その第10経コーカーリヤには嘘の報いとして落ちる地獄のありさまが詳しく説かれる。このような思想は大衆教化に重要な役割を果たしたと思われる。このことは仏教説話『ジャータカ』からも推測される。『ジャータカ』は、大衆向けの教訓的な寓話をブッダの前世物語として説くものであるが、ここには業・輪廻の思想が前面に押し出されている。1)
輪廻の観念を受けて、苦しみからの解放は、この苦しみの生存からの離脱、すなわち輪廻から脱することであると考えられるようになる。そして、悟りを表す表現は、次のように定型化された。
「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」
ところで、何に生まれ変わるかを決定する原因が何であるかについては、ブッダ時代の一般社会において、さまざまに考えられていた。臨終に際しての意志によるとの考え、あるいは神の意志によるとの考えもあったが、支配的な考えは、前世における業によるという考えであった。2)
ブッダと同時代の自由思想家の中には、プーラナ・カッサパやアジタ・ケーサカンバリンのように、業の因果応報を積極的に否定したものもあった。彼らは善悪の行為が後に安楽と苦しみの果報をもたらすことはないと考えた。またマッカリ・ゴーサーラのように運命論を説く人もいた。さらに、業の因果応報思想の中には、前世での行為(業)を宿命のようにみなす決定論的な考えもあった。現世での行いは、善であれ、悪であれ、すべて前世の業によって規定されているというのである。この説によれば、意志の自発による行為は認められない。
これらに対し、仏教やジャイナ教は、このような人間の行為の効力を認めない説を行為否定論(akiriyavaada, akriyaavaada)と呼び、道徳を破壊する説として非難した。
仏教は、「世尊は業論者、行為論者、努力論者であった」(Anguttara Nikaaya I p.287)として、業思想を容認しつつ、行為・努力に生存のあり方を変える効力を認める立場をとった。3)
1) 中村元監修『ジャータカ全集』全10巻、春秋社。 輪廻にせよ、業にせよ、無記の立場に立つブッダが積極的にこれを主張した形跡はない。苦しみからの解放に向かう努力を説き勧めることという第一義の目的と矛盾しない限りにおいて、社会通念を容認する立場をとったのであろうと考えられる。しかし、輪廻・業の思想は、階級差別を合理化する働きをもっており、これを受け入れることによって、仏教は階級の平等を説きながらも、結果としては階級差別を助長するという矛盾を生み出した。【本文へ】
2) 中村元『原始仏教の思想』上、春秋社、昭和45年、p.277参照。
柳田國男は、日本の伝統的な観念の一つとして最後の一念による未来世の決定を紹介する。『先祖の話』「75 最後の一念」(定本柳田國男集、第10巻 筑摩書房 1962年) p.140: 「我同朋の久しい以前から、抱いて居た一つの信仰、即ち人の最後の一念が、永く後の世に跡を引くといふ考へが、暗々裡に働いて居たのではないかと私は思ふ。」
同「80七生報国」 p.149: 「少なくとも人があの世をさう遥かなる国とも考へず、一念の力によってあまたたび、此世と交通することが出来るのみか、更に改めて復立帰り、次次の人生を営むことも不可能ではないと考へていなかったら、七生報国といふ願ひは我々の胸に、浮かばなかったろうとまでは誰にでも考へられる。」として『太平記』から楠正成が七生報国を念じて正季と刺し違えるところを引く。
最後の一念によって未来が決定されるという考えは、必ずしも日本固有ではなくインドにも認められる。『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』3.14.1、『マッジマ・ニカーヤ』vol.3、p.99.『バガヴァッド・ギーター』8.5以下、参照。【本文へ】
3) 行為がその後に効力を残し、その後の生存を決定することを認め、しかも現在の行為は過去と無関係に行われるということは、一見矛盾のように響く。この点について、後代の部派仏教では教理の整備が行われた。説一切有部では、次のように説かれる。
注
善悪の行為は因となる。結果として生ずるのは快か不快であるが、これらは善でも悪でもない。善悪の行為を因として、それとは異なる善でも悪でもない結果が熟すから、これらは異熟といわれる。この善でも悪でもない結果が因となって、次の業(行為)を生ずることはない。過去の行為(異熟因)によって現在の苦楽(異熟果)は規定されても、現在の行為はそれによって規定されない。行為は行為者の意志によって起こるのであって、過去の行為によって支配されないというのである。桜部建「有部」(『岩波講座東洋思想』第8巻)、p.214参照。【本文へ】