1. プーラナ・カッサパの行為の善悪否定論

 プーラナ・カッサパは、行為に善悪はなく、行為が善悪の果報をもたらすこともないと主張した。傷害・脅迫・殺人・強盗・不倫・虚言などを行ったとしても、悪にはならない。悪の報いはない。施し・祭式・節制・真実を語ることを行ったとしても、善にはならない。善の報いもないと説いた。

 この教えは「道徳否定論」として紹介されることが多いが、決してそのような思想ではない。すぐあとで扱うパクダ・カッチャーヤナの思想と同じく、あらゆるものごとを「平等」にみることによって、行為に附随する罪福へのこだわりとその結果生まれる苦しみから心を解き放とうとする教えであろう。このような教えは、特に生きものを殺すことを職業とするため、業・輪廻説にしたがうかぎり、苦を果報として受けることが避けられないとされる人々に対して説かれたのではないかと考えられる。これは、その本質において、『バガヴァッド・ギーター』2.38の「苦楽、得失、勝敗を平等のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。」という「平等」の教えと同じであろう。1)

パーリ仏典『沙門果経』の第17節 (PTS, DN, I, p.52) において、プーラナの思想は次のように紹介されている。

「行為する者、させる者が、(人を)切ったり、切らせたり、苦しめたり、苦しめさせたり、悲しませたり、疲れさせたり、恐怖を与えたり、与えさせたり、生きものを殺したり、与えられないものをとったり、家を壊して侵入したり、掠奪したり、盗みを働いたり、路上で追いはぎをしたり、不倫したり、嘘ついたりしたとしても、悪いことをするわけではない。
また、まわりが剃刀のような円盤で、(あらゆる)地上の生きものを、一山の肉、一塊の肉にしてしまっても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の南岸に行き、人を殺したり、殺させたり、切ったり、切らせたり、責めたり、責めさせたりしても、それによって悪があるわけではなく、悪の報いはない。
ガンジス河の北岸へ行き、施しをしたり、施しをさせたり、祭式を行ったり、祭式を行わせたりしても、それによって善があるわけではなく、善の報いはない。
布施、克己、節制、真実を語ることによって善があるわけではなく、善の報いはない。」


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1) 野沢正信「古代インドの宿命論アージーヴィカ教について」『印度哲学仏教学』第18号、2003年、pp.34-51.参照。

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