5. ジャイナ教   (文中 Sk は Sanskrit (梵語)の略)

1)ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)のジャイナ教 

 ジャイナ教は、ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)によるニガンタ(Sk ニルグランタ)派の改革から生まれた教団である。ニガンタ派は、伝説によればマハーヴィーラの200年から250年前の人とされるパーサ(Sk パールシュヴァ)が開いた宗教である。

 ジャイナ教の伝説は、マハーヴィーラ以前に23人のティッタンカラ(“[輪廻の激流を渡り彼岸に到達するための] 渡し場を作った人”、Sk ティールタンカラ)がいたとする。パーサはその23代目、マハーヴィーラは24代目とされる。これがジャイナ教といわれるのは、マハーヴィーラをジナ(勝利者)と呼ぶことにもとづく。マハーヴィーラの改革後も“ニガンタ派”の名は使われ、漢訳仏典においてジャイナ教徒は「尼乾子」(にげんし)として現われる。

2)マハーヴィーラの生涯

 マハーヴィーラは、ジャイナ教団の伝統説によれば、前599年チャイトラ白月13日、ヴァイシャーリー近郊のクンダプラで、父シッダールタと母トゥリシャラーの間に生まれた。ナータ(Sk ジュニャートリ)族出身であることからナータプッタ(“ナータ族の子”)と呼ばれる。

 研究者は、マハーヴィーラがブッダと同時代とされることから年代を推定する。このため仏滅年代をいつとするかに対応して、ほぼ二種の説が立てられている。パーリ語の資料に基づく、「南伝」の仏滅年代によるJacobi説では、マハーヴィーラは549-477BC、漢訳仏典に基づく「北伝」の仏滅年代をとる中村元説によれば、444-372BCである。1)

 伝説によれば、マハーヴィーラの元の名はヴァッダマーナ(Sk ヴァルダマーナ)で、結婚して娘一人をもうけ、両親との死別の後、30歳の時、一切を捨てて修行生活に入った。13ヶ月で衣服を捨てて裸形となり、12年間の苦行の後、42歳の時にリジュクラ河畔ジャブラカ村で修行を完成し悟りを得て、<ジナ(勝者)><マハーヴィーラ(偉大な勇者)><アリハンタ(“敵を滅ぼした人”、あるいはアルハット、“修行完成にふさわしい人”)>などと呼ばれるようになる。
 その後30年間、ガンジス河中流地域で布教活動をし、72歳のときマガダ国のラージャガハ(Sk ラージャグリハ)近郊パーヴァーにおいて入滅した。白衣派はこれをヴィクラマ暦(起点57or56年BC)の470年前とし、空衣派はシャカ暦(起点AD78年)の605年前とする。(先の年代論の伝統説はこれらの記事によっている)

3)マハーヴィーラの思想

 マハーヴィーラは、パーサの「4戒」を2)、不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有の五つの制戒に改め、これに懺悔を伴わせてニガンタ派の教義を改革した。

 倫理的な生活をおくることによって心を汚れから守ることを説く点は仏教と同じ傾向を示しているが、より禁欲的で厳格な実践が求められる。とりわけ不殺生と無所有の実行が重視される。

 「不殺生」を説くのは、すべて生きものは苦を憎むので、殺せば必ずその憎しみが殺害者にふりかかり束縛の原因となるからである。ジャイナ教において<生き物>は6種(六生類)とされる。地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物の6種である。通常に生き物とされるものよりはるかに範囲が広い。器いっぱいの水は、器いっぱいの蟻に等しい。ともに生命あるものとされる。

 そのためジャイナ教の不殺生戒は、仏教よりも徹底している。ジャイナ修行僧にとって、(水中の微生物を除くための)水こし袋・(空気中の微生物を誤って吸い込まないための)口を覆う布・(道行く時に踏んで殺さないよう虫たちを追い払うための)鈴のついた杖などは、生活の必需品である。

 「無所有」を説くのは、次の理由による。所有は欲求であり、欲求は行為を導く。行為すれば必ず殺生することになり、殺生は最大の罪で、束縛の原因である。そのため「すべて」を捨てることが求められる。「すべて」に含まれるのは、ものだけではなく、家族・親類などの人間関係、欲求などの精神的なもの、さらには修行に不必要なもの「すべて」である。それ故、衣服を用いない裸形がジャイナの修行の理想とされる。

 また修行者の修行も、中道をとる仏教より厳格で、マハーヴィーラが一貫して苦行を続けたことにならって、ひたすら試練に耐えることが重んじられる。苦行は超自然的な験力を生み、霊魂に汚れとしてついた業を払い落とす効果があるとみなされる。特に断食が重視され、最終解脱には断食により身体を放棄することが必要とされた。

4)教団

 マハーヴィーラの教団は、出身地のヴェーサーリー(Sk ヴァイシャーリー)に多くの信者を得た。マハーヴィーラの入滅後、ジャイナ教団はそれほど大きくは成長しなかったようであるが、マウリア朝の宗教保護政策により勢力を伸ばした。アショーカ王の碑文(第7 Delhi-Topra碑文)には仏教(サンガ)、アージーヴィカ派と並んで<ニガンタ派>の名が出る。

  その後、飢饉の時、一部が南インドに移住した。そして南北の教団で衣の着用をめぐって解釈が分かれ、白衣の着用を認めた北インドの教団は「白衣派」、保守的な立場を取った南インドの教団は「空衣派」と呼ばれるに至った。この分裂は、紀元後1世紀頃には完全なものとなったと推定されている。

5)ジャイナ教の聖典

 聖典の結集は、マハーヴィーラ入滅後170年、長老バドラバーフ亡き後、マガダ国のパータリプッタ(Sk パータリプトラ)において、ストゥフーラバドラが指導者となって行われた。この時、12の<アンガ>を作成したという。この結集を南インド移住派は正統と認めず、以後白衣派のみが聖典を伝えることとなった。

 5世紀、あるいは6世紀には、グジャラートのヴァラビーにおいて経典の再編が行われた。この時までに第12アンガが散逸しており3)、11アンガの再確認と12ウパーンガの付加が行われた。

6)現代のジャイナ教

 今日でも、インドの人口の 0.48 % がジャイナ教徒であるが4)、その多くは商業に従事する。商業以外の職業では、不殺生の制戒を保つことが困難であるからとされる。


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1)Schubring, Die Lehre der Jainas, Berlin & Leipzig 1935, p.30 (The Doctrine of the Jainas, Delhi 1962, p.38)
  Basham, The Wonder That Was India,1954, p.290, Basham説によれば、540-468BCの人。
 中村元『インド古代史』下、春秋社、1966年、p.432.

2) パーサの四戒は、次の4つである。
  1.生きものを殺傷しない
  2.嘘をつかない
  3.与えられないものをとらない
  4.規則外のものを受けない(あるいは、「外部にあたえない」)
    第四の戒については、解釈が分かれている。
 

3) 第12アンガは、プッヴァ(puvva, Sk pūrva)と呼ばれる14の聖典群を含んでいたが、これらは異教徒との論争の記録で、とりわけ反対論者の説を載せていたのではないかとされる。これら反対論者の教説から異端説が生まれることを恐れて、伝えられなくなったのではないかという説がある。金倉円照『印度古代精神史』岩波書店、1939年、p.233参照。

4) Britannica World Data 1990, p.635.


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参考文献及びリンク:
http://www.cs.colostate.edu/~malaiya/jainhout1.html