2000年2月,静岡県田方(たがた)郡函南(かんなみ)町。酪農で有名な丹那(たんな)盆地から北へ数km行った田代盆地の一角にある水田で,作業は行われていた。クレーンやパワーショベルが持ち込まれ,鉄板を加工した器材などもある。そのまわりで数人の男たちが,大地に掘られた溝を見つめながら動いている。一見したところでは土木建設工事のようにみえる。
しかし,それは建設工事ではないし,彼らは建設会社の作業員でもない。彼らは何者なのか?
東京大学地震研究所,広島大学,山梨大学,そして民間の地質調査コンサルタント。所属はそれぞれだが,彼らはいずれも日本を代表する活断層研究者とその卵たちである。
活断層――それまで地形学の学術用語だったものが,阪神・淡路大震災によって,世間でも注目されるようになった。神戸市など都市部での甚大な被災状況とともに,淡路島で地表に現れた断層の姿を覚えていらっしゃる方も多いことだろう。
大地にかかる大きな力が,あるとき亀裂を発生させる。大地は亀裂に沿ってずれ動く。それが活断層であり,そのときの衝撃が地震である。活断層が地表に割れ目を生じさせながら動き,大地震を発生させたのは,明治以降の日本でも何度かあった。田代盆地から丹那盆地にかけてを貫く丹那断層もそのひとつである。
伊豆半島の付け根の部分,箱根から伊豆半島へのびる稜線のすぐ西側に,丹那盆地と田代盆地が南北に並ぶ。丹那盆地の真下には現在,JR東海道本線の丹那トンネルと新幹線の新丹那トンネルが貫いている。
1930年(昭和5年)11月26日未明,この地方をマグニチュード7.3の大地震が襲った。北伊豆地震と呼ばれる地震である。函南町では当時1738世帯のうち半数近くにあたる821戸が全壊または半壊し,周辺市町村あわせて255名の命が失われた(静岡県警察部,1931;田方郡教育長会ほか編,1981)。
このとき,建設中だった丹那トンネルでは,水抜き坑の一つで切羽部分が切り取られ,先端部が北側に約2m移動した。断層の横ずれにより切断されたのだった。熱海・函南両側から掘り進められていた丹那トンネルは,ずれによる食い違いを解消するため中央部でS字カーブを描いている。
トンネルの水抜き坑を切断した断層は,地表では,箱根・芦ノ湖付近から修善寺付近までの約30kmにわたって断続的に現れた。このうち,箱根峠南西から大仁(おおひと)町浮橋(うきはし)付近までの南北方向ないしは北東―南西方向に走る断層は,左ずれの動きを示しており,これを「丹那断層(帯)」と呼んでいる。また,中伊豆町姫之湯(ひめのゆ)や大仁町田原野(たわらの)付近に現れた北西―南東方向の断層は,右ずれの動きを示した。南北方向の左ずれ断層(丹那断層)と北西―南東方向の右ずれ断層(姫之湯断層ほか)は,同一の圧縮の力によって生じていると考えられており,これらをまとめて北伊豆断層系と呼んでいる
(図1)
。
地表に現れた断層のずれは,70年たった今ではほとんど痕跡が残っていないが,いくつかの地点では今も見ることができる。それらを紹介しておきたい。
県道熱海函南線,通称「熱函(ねっかん)道路」で丹那盆地に入ると,「丹那断層」という案内板が目に入る。案内板に沿って盆地の底へと降りていくと乙越(おっこし)地区の丹那断層公園にたどり着く。ここでは地表の横ずれが保存されており,国指定の天然記念物となっている。ここにはかつて民家があり,石で囲んだ円形の塵捨場,石組みの水路,水田との間の石垣があった。それらを断ち切るように断層は動いた。塵捨場は真ん中で断ち切られ,一方の半円が2m余りずれた。水路や石垣も同様に断層を挟んで2m余り食い違っている
(写真1)
。縦ずれ(地面の垂直方向のずれ)がほとんどなかったので,きれいに芝生が植えられた今では断層の位置はすぐにはわからないかもしれないが,石の並びが食い違っているところを結んでいけば,断層線をたどることができる。断層線を延ばした先に断層地下観察室がある。地表で石組みを食い違わせた断層のずれは,地下では地層の食い違いとして記録されているはずである。地下観察室は地面を深さ3mほど掘り下げてあり,底に降りて,壁面に現れた断層による地層の食い違いを見ることができる。
断層はここからさらに先へと延びている。延長線上を目でたどると,小さな森の脇を通り,丹那盆地の北側へ達し,さらに田代盆地のほうへと延びているはずである。断層公園には丹那・田代周辺の地形を表した大きな立体模型もあるので,併せてご覧いただくとよくわかるだろう。
田代盆地では,丹那断層は盆地の西端を通っている。言い換えれば,田代盆地と西側の山地との境界線が南北の直線状に走っているのは断層の影響である。その田代盆地の西縁に火雷(からい)神社がある
(写真2)
。道路の脇に壊れた鳥居が立っている。北伊豆地震の際に被害にあったものだ。その向こうに石段があり,石段を登ったところに社殿があるのだが,ここでは鳥居と石段の位置関係に注目して欲しい。よく見ると鳥居は石段の真正面にはない。手前の鳥居に対して向こうの石段がやや左側にずれて位置している。昔からこうだったわけではない。実は,丹那断層によってずれてしまったのだ。ということは…そう,断層は鳥居と石段の間を通っているのである。丹那断層公園とならんで,ここも断層による横ずれがよくわかる場所として有名である。鳥居の近くの解説板に備え付けのノートには,ここを訪れた多くの人たちの名前が記されている。
さて,北伊豆地震の直後,多くの研究者によって現地調査が行われ,多数の報告書が書かれた。昭和初期という時代背景を考えれば驚異的なことである。前述の左ずれ断層・右ずれ断層の分布も,多くの地点での断層の観察により判明したことである。なによりも,横ずれ活断層――縦ずれよりも横ずれのほうが卓越した動きをしている活断層――ということが明らかになったのは,丹那断層が日本で第一号である。以後,丹那断層は,日本における活断層研究の重要な調査地となっていった。
1980年,丹那断層でトレンチ調査が行われた。過去に活断層が動いた出来事は,地層のずれとして記録されている。活断層が同じ場所で繰り返し動けば,地層のずれも累積していく。地面に大きな溝を掘って,地下の地層のずれを観察し,活断層の活動履歴を解明しようというのがトレンチ(溝)調査である。先に紹介した丹那断層公園の断層地下観察室もトレンチのひとつである。
一つの活断層が繰り返し動く間隔は,数百年とか数千年といった人間の感覚からすればずいぶん長いものである。しかし,ひとたび活断層が動けば,地震として大きな被害が発生する。活断層の活動履歴を明らかにすることは,直下型地震の予知にとって重要な課題である。
1976年,アメリカで開かれた活断層に関するシンポジウムで,ケリー・シーという一人の大学院生がサンアンドレアス断層を掘ったということが大きな話題になった。彼は,厚さ5mほどの地層のなかに断層が9回動いたという証拠を見つけ,この断層は過去1400年の間,約160年間隔で繰り返し動いたということを明らかにした。地震学者・地質学者にとって長年の課題だった問いを,彼は「断層を掘る」という手法で解いたのである(松田,1984)。
これを知った日本の研究者達は,日本にもトレンチ調査法を導入した。まず,1978年に鳥取県の鹿野(しかの)断層,ついで兵庫県の山崎断層でトレンチ調査が行われた。こうして日本でもトレンチ調査の意義が認識されるようになり,日本の活断層研究にトレンチ調査が本格的に導入されることになった。東日本は東京大学地震研究所が中心となり,まず歴史時代に大地震を起こした断層を掘ることになった。そうして最初の調査対象として丹那断層が選ばれた。
1980年10月,丹那盆地北部の名賀(みょうが)地区,柿沢川(かきざわがわ)左岸の牧草地で,長さ30m深さ2.5mのトレンチが掘られた。この場所は北伊豆地震の当時,水田であったのだが,地表に現れた断層が詳細に測量され記録されていた。それに加えて土地所有者から当時の状況を聞くことにより,ここを掘れば断層が出てくるという位置をほぼ正確に推定することができたのだった。さらに,断層の活動履歴を解明する手がかりとなる沖積層と呼ばれる比較的新しい地層が,この場所には十分に堆積していた。
45度の傾斜できれいに整えられた壁面に,水糸を張って1m間隔の格子を作っていき,1m四方の区画ごとに詳細なスケッチをしていく。まるで遺跡の発掘調査のようだが,土器や石器を発掘しているわけではなく,そこにある地層自体が発掘対象である。ねじり鎌で地層を切るときの音と掌に伝わる感触で地層を区分していく。こうしてスケッチが完成すると,地層のずれが明らかになる。ある地層(A)が断層により食い違っていて,その上にある別の地層(B)は食い違っていないとすると,A層が堆積した後に,断層が動いてA層を食い違わせ,その後B層が堆積したと考えられる
(図3)
。地層中に埋もれている木片や腐植を採取して,炭素同位体年代測定を行えば,それがいつのことだったのかが判明する。地層中の火山灰も,いつどこの火山が噴火したものかがわかっていれば,同じように断層の動いた年代を知る手がかりとなる。また,断層が何度も動けば,地層のずれは累積していき,下にある古い地層ほどずれ幅が大きくなる。このトレンチ調査によって,丹那断層の過去2回の活動,つまり1930年の北伊豆地震とそれより前の地震を読みとることができた(丹那断層発掘調査団,1981)。
さらに,1982年の2月,同じ場所で再度トレンチ調査が行われた
(図4)
。今度はさらに深く掘り下げて,さらに昔の活動歴まで解読することにより,地震の発生周期を明らかにしようとしたのである。最深部で10mにもおよぶトレンチからは,過去6000〜7000年間に9回断層が動いたことが判明した(丹那断層発掘調査研究グループ,1984)。平均しておよそ800年に1回の割合で丹那断層は動いていることになる。また,1回目の調査で見つかった1930年よりも前の地震は,その時に断ち切られた地層中に838年に神津島(こうづしま)が噴火したときの火山灰が含まれていることが新たに判明したことなどから,古文書に記されている841年の伊豆国の大地震である可能性が高いことがわかったほか,この841年の地震と1930年の北伊豆地震との間にもう1回,断層の活動があったことも推定された。
一方,丹那断層の南部でも,1980年と1982年に地質調査所によりトレンチ調査が行われ,大沢池のトレンチでは,1930年よりひとつ前の断層活動は約700年前であることが推定された。また,東京大学地震研究所を中心としたグループは,その後,田代盆地の南部(1982年),丹那盆地の中央部(1985年)でもトレンチ調査を行った。こうして丹那断層では,1985年までに合計6回(5ヶ所)のトレンチ調査が集中的に行われ
(図2)
,断層は平均して約700〜1000年の間隔で活動を繰り返していることが明らかにされた。
話を現在に戻そう。冬空の下,田代盆地で調査している研究者たち。彼らはなぜ,20年近く前に活動歴が明らかになった活断層を,いま再び調査しているのだろうか。
丹那断層でトレンチ調査が行われた当時,活断層はほぼ一定の周期で繰り返し活動すると考えられていた。その後,全国各地の活断層で行われたトレンチ調査の結果も,この考え方に適合するものが多かった。しかし,最近になって,活断層による地震の発生間隔は,平均値の2分の1から2倍の間で変動することがわかってきた。仮に平均間隔が800年だとすると,実際には400年から1200年という大きな幅があることになる。これでは,ある活断層が近い将来地震を引き起こすかどうか予測するにしても誤差が大きすぎる。そこで,どのように地震が繰り返し発生するのか,そのモデルを確立することが求められている。発生間隔と断層のずれの大きさとの関係に着目すると,
の2つの仮説が考えられる。そして,もし後者であれば,前回の地震のときのずれ幅を調べることによって次の地震がいつ起きるのかおおよその予測が可能になる。このモデルが正しいかどうか検証するためには,過去の各地震の発生時期,ずれの大きさを正確に調べ明らかにしなければならない。
このような正確で詳細な結果が要求されるようになってくると,従来のトレンチ調査法では限界がある。トレンチ調査では,断層を横切るように溝を掘り,その両面に現れた地層のずれを観察する。つまり,情報源はたった2枚の断面である。しかも,丹那断層のような横ずれ断層では縦ずれ量は小さく,断面ですぐにわかる縦ずれだけから横ずれも合わせた全体のずれの大きさを知るのは難しい。したがって,三次元的な地質構造の把握が必要になってくる。もうひとつ,横ずれ断層としては中央構造線活断層系などが有名だが,これは横ずれ量が大きい。ある地層の続きが断層を挟んでどこにあるのか調べるのに,ずいぶん向こうまで掘って調べなければならない。その点,丹那断層は,調査するうえで適度な横ずれ量なのだ。
このような理由から,再び丹那断層で調査が行われることになったのである。では,丹那断層のどこで調査を行うか。条件のひとつは,沖積層が長期間にわたって連続的に堆積している場所。そして,もうひとつの条件。同じ地層が一面に堆積していたのでは,横ずれがはっきりと読みとれない。断層公園の石組みや火雷神社の鳥居と石段のようにずれ幅を知る指標となるものが,大昔の地層のなかに必要である。もし草原のなかに小川が流れていたら…,小川の底にだけ砂が堆積するはずである。そのような条件から,田代盆地西縁の地点が選ばれた。盆地なので沖積層が十分に堆積している。そして,田代盆地に降った雨は,この地点から冷川(ひえかわ)として流れ出している。かつても盆地の各所からの小川がここを流れていたはずである。北伊豆地震の時の記録,空中写真などから断層の位置を数mの精度で特定した。
そして,この調査のために新しい調査器材が持ち込まれた。先ほど述べたようにトレンチ調査では通常2つの断面が得られる。パワーショベルで掘られた部分の地層は当然のことだが破壊される。つまり,トレンチが大規模になるほど失われる地質情報も大きくなる。移動土量をいかに小さくするかが課題となる。堆積した地層を薄い板状に抜き取れないか。そんなアイデアから開発されたのが「ジオスライサー」である。長さ数mの鉄板2枚を組み合わせて地面に差し込み,引き抜くことによって,その名の通り大地をスライスしようというのである。抜き取る厚さは約10cm。トレンチ調査にくらべて格段に少ない土量で1枚の断面を見ることができる
(写真3
・
口絵)
。間隔をあけて何枚も抜き取り,それらの断面を並べると,その場所の深さ数mにわたる地質を三次元で把握することができる。
ジオスライサーを使って,断層がどこを走っているか正確に把握し,狙いを定めたところで,トレンチを掘る。ただし,今回は横ずれ量を明らかにするのが目的である。横ずれを調べる指標となる昔の小川の堆積物(砂)が出てきたところで,そこから水平に土を削っていき,小川の跡を追跡する。突如,追いかけていた砂がなくなった。断層により断ち切られたのだ。その先の砂はどこにあるのか。断層に沿って,ねじり鎌で丁寧に地面を削っていく。まさに遺跡の発掘調査のような光景である。砂は50cmほど先にあった。つまりこの50cmというのが,1930年の北伊豆地震におけるこの地点の横ずれ量である
(図5)
。さらに深いところにある,1930年とその前の地震の2回のずれを受けた地層も同様に調べた結果,こちらは60〜80cmの横ずれであることがわかった。1930年のずれが50cmであることから,その前の地震でのずれは10〜30cmということになる。また,年代測定の結果,1930年のひとつ前の地震は今から約400年前から約600年前の間であることがわかった(近藤ほか,2001)。
今回の調査では,得られたデータが少なく,地震の繰り返し発生モデルを確立するまでには至らなかった。しかし,こうした研究が積み重なっていけば,活断層がどのような法則で活動を繰り返しているのか突き止め,近い将来に地震が起きる可能性を予測することも可能になると期待できる。
丹那断層は,地表に現れた断層の詳細な記録,トレンチ調査,ジオスライサーと,常に日本の活断層に関する最新の研究が行われてきた調査地であった。丹那断層が次に地震を引き起こすのは,平均700〜1000年間隔ということから考えて当分先のことだと予想されるが,ここでの研究成果は,全国各地に分布する活断層の活動予測に役立ち,地震防災に貢献する可能性を持っている。
(佐藤崇徳)