《ハイパーメディア版》
キーワード:沖積平野,地形発達,FeS2分析,地形環境,沼田川
最近では,縄文海進以降の歴史時代における地形環境の変遷こそが,自然環境と人間活動との関係を明らかにするうえで注目されるべき課題であるという視点に立って,歴史地理学や考古学とも関わりながら地形環境の復元やそれが人間活動に与えた影響の考察を試みる研究が行われつつある (日下,1980,1991;小野,1980;高木,1985;高橋,1989,1995;額田,1993,1995)。これらの研究によって,歴史時代における地形環境の変遷が次第に明らかになってくるとともに,沖積平野では歴史時代においても地形環境に大きな変化が認められたこと,現在の地表面に現れている地形のみによって過去の地形環境を推測するのでは不十分であることなどが明らかになった。高橋 (1989) は地形環境分析という考え方を導入して,4段階の精度で地形をとらえ,歴史時代における地形環境の変遷と水田開発との関係について検討した。また,このような成果は遺跡調査にも反映されるようになってきた (辰己,1994)。このほかにも,各地の沖積平野の地形発達史を解明する上で遺跡や条里制遺構の分布を手がかりにした研究は多い。
瀬戸内海沿岸においては,広島平野 (藤原ほか,1985),岡山平野 (藤原・白神,1986) の沖積層の堆積構造が明らかにされ,周防灘北岸沿岸低地 (中田ほか,1984) および岡山平野 (藤原・白神,1986;川越,1986) においては遺跡の立地と海水準の関係について検討された。
また,高橋 (1995) は,多くの遺跡発掘調査に関わって地形環境分析を行った結果から,瀬戸内海沿岸の平野の形成過程について縄文海進以降に11のステージを認め,さらに,どのステージに形成された部分が卓越しているかで平野を3タイプへ類型化し,各類型と歴史時代における土地開発との関係を考察した。このうち,近畿・山陰に多く分布するラグーン・タイプについては,歴史時代における地形環境についての研究が進められている (高橋,1989,1994;額田,1993,1995)。一方,中国地方の瀬戸内海沿岸に分布するデルタ・タイプは,最近 (完新世段丘II面の段丘化以降) になって成長した部分が大きいが,歴史時代の地形環境の変遷に関する研究はあまりなされていない。
そこで,本研究においては,瀬戸内海中部沿岸に位置する広島県の沼田川下流平野を取り上げ,その地形発達について考察を行った。広島県付近は,日本海側との分水界が南に寄っているため流域面積が狭く,流域の山々の標高も低いため,河川による土砂堆積量は少ない。そのため,現在の沖積平野は遅くまで溺れ谷地形を呈していたと考えられ,中世ないし近世以降に始まった干拓によって陸化した部分が大きい。したがって,歴史時代において地形環境の変遷と人間活動は相互に影響し合いながら進展してきたと考えられる。
また,本研究を進めるにあたって,対象地域内の沼田川沿いに鎌倉時代末期から戦国時代にかけて存在していたといわれる中世市場集落の立地環境についても検討し,歴史時代における地形環境変遷を考察する際の手がかりとした。
本郷町船木付近から下流は,標高10m以下の沖積平野が広がっている。しかし,両側に丘陵地が迫っているため,この平野はそれほど広いものではなく,河口までの間には,本郷町中心部の北方 (高山−新高山間),三原市の西部 (仏通寺川合流点付近),三原市市街地の西端に狭窄部が存在する。本稿では,沼田川下流に広がる沖積平野について,狭窄部によって区切られたそれぞれの区域をひとつの地形単位として,上流側から「船木盆地」,「本郷低地」,「沼田低地」,「三原デルタ」とそれぞれ呼ぶことにする。
船木盆地は,先述の深い構造谷の谷口に位置し,主に砂礫が堆積している。高山−新高山間の狭窄部をぬけると,沼田川は東に向かって流れる。西からは梨和川,北からは仏通寺川がこの平野に注いでおり,谷の出口に当たる本郷町中心部付近では,土砂が扇状地状に広がって堆積した様子が空中写真によって見られる。それより下流では,標高5m以下の低地が広がっている。第2図は,1947年米軍撮影の空中写真および1974年国土地理院撮影の8千分の1空中写真をもとに作成した本郷低地から沼田低地にかけての地形分類図である。この地域においては,自然堤防はあまり発達しておらず後背湿地性の低地が大部分を占めている。また,その中に幾筋かの旧河道を見ることができる。この一帯の土地割りは不規則であり,空中写真判読で確認された旧河道以外にも,沼田川・仏通寺川は氾濫を繰り返し何度も流路を変えながら流れていたと推測される。
沼田低地の南側には天井川 (河名) が流れている。上流部が近世に商業・製塩業で栄えた竹原に隣接しており,燃料薪の供給のために山林を乱伐した結果,近世後半から近代にかけて洪水が頻発し,その名が示すように天井川が形成されたものと考えられている (香川,1977)。しかし,谷底平野から沼田低地に出たあたりからは,河床は低下し空中写真からは顕著な氾濫の痕跡は見られない。
沼田低地から三原デルタに抜ける狭窄部付近には明瞭な自然堤防が見られる。これは川幅が狭くなることに加えて天井川が合流することにより,水位が上昇し氾濫がおきることが頻繁にあったためと推測される。
瀬戸内海に面した三原デルタには三原市の市街地が広がっているが,その大部分は標高2m以下であり,北西部の頼兼新田 (1622年) を皮切りに始まった近世から近代にかけての干拓によって陸地化したものである。また,河口付近は,左岸は昭和初期以降 (一部はそれ以前から干拓地・塩田であった),右岸は戦後になってからの埋立地である (金子,1975)。
海図に示された等深線によると,海底は現在の埋立地の沖で−20m余りまで急に深まっており (約30‰),この斜面が三原デルタの前置斜面にあたると考えられる。この前置斜面の平面形は,一般的なデルタと異なり海に向かって凹型をしている。桑代 (1958) は,三原湾の速い潮汐流が前置層および底置層の沖合への発達を阻害したことによるものであるとしている。海図では,沼田川から送流された土砂が河口の沖で潮流に流されて弓型の地形を呈しており,さらにその沖合の海底は潮流により深く掘り込まれており,桑代の考察が裏付けられている。
下部砂層は,後氷期の海進の初期に河川により運搬されてきた土砂がデルタの前置層として堆積したもので,層相は砂が中心でN値は5〜20程度である。現在の沼田川河口付近では分布が南岸に限られ層厚も2〜4mと薄い。河口付近のほかの場所では基底礫層の上に中部泥層が直接堆積している。
中部泥層は,デルタの底置層として堆積したN値0〜3程度の非常に軟弱なシルトを中心とした層である。本層中には貝殻片を多量に含むほか植物片を含むことも多い。三原デルタでの層厚は十数mある。沼田低地においては6〜8mの層厚で,現在の河口から約8.5km上流の納所橋付近まで追跡できる。
いくつかの地点では,ボーリング柱状図やコアの観察より,この中部泥層中にテフラの包含が認められた。コア中の火山ガラスの屈折率の測定の結果,このテフラは約6,300年前に降下したアカホヤ火山灰 (町田・新井,1992) と同定された(注1)。
上部砂層は,中部泥層の上にのる砂を中心としたN値5〜20程度の層である。この層は,海水準がほぼ現在と同じになって以降,デルタの前置層として堆積が進んだと考えられる。河口付近では所々で−10〜−15mまで堆積している。上流にいくと粒度が粗くなり,本郷町中心部付近からは礫も混じるようになって,下部砂層や最上部層との境界が不明瞭になる。
最上部層は,沖積層の頂面を覆う砂〜粘土の層であり,上部砂層よりゆるい (N値10以下)。微地形に対応して形成されたため,層相は,河道沿いでは砂,後背湿地ではシルトと場所によって異なっている。また,砂とシルトの互層になっているところもあり,河道の移動などにより堆積環境が変化したことがうかがえる。上流へいくにつれて上部砂層との境界が不明瞭になっている。
基底礫層の上位に部分的に分布するN値5以上の粘土層については,E-1コア,E-2コアのFeS2分析の結果は,その上部が海成であることを示している。しかし,E-2コアおよびE-3コアの分析結果より,下部は陸成である。下部砂層に分類される砂層は,E-4コアの礫混じり砂 (−21.15m) は陸成であるが,E-8コアの粘土混じり砂 (−19.45m,−20.45m) は海成であり,また,E-1コアの粘土層に挟まれた砂層も海成である (その下の粘土層は試料が得られないため不明)。このように,分析結果はこれらの粘土層および砂層が海成であるというデータを示している。このうち下部砂層に海成層の下限が存在することは,白神 (1985) により広島平野でも確認されている。しかし,やや硬質な粘土層は小野 (1988) により陸成の洪積層と考えられている。この問題の解答は見出せていないが,海進後に海底の洪積層の表層に海水が浸透しFeS2が生成された可能性も考えられる。
三原市沼田東町本市地区では,広島県立歴史博物館が沼田荘沼田本市遺跡の調査のために行なったボーリング5本のうち4本のコアについて分析を行った。ボーリング地点は,沼田川南岸に形成された自然堤防周辺で,上流から下流にかけて約250m間隔で,H-1,H-3,H-5コアが位置しており,H-3コアの南側のやや後背湿地よりのところにH-4コアが位置している。このうち,H-3コアは深さ20mまで行なっており,そのほかのコアは深さ10m前後までである。
分析の結果,H-1コア,H-3コア,H-5コアの海成層上限の推定区間が,−2.50m〜−4.30mの範囲内にそろっており,また,H-4コアにおいても−3.00mから−3.50mの間に海成層の上限が存在している。H-4コアではさらにその上に海成層が認められ,その海成層の上限の推定区間は+0.60m〜0.00mである。本地区は沼田川沿いにあることから,H-1コア,H-3コア,H-5コアは河川による侵食・再堆積が行われたものであり,自然堤防帯からやや離れたH-4コアの+0.60m〜0.00mの区間が実際の海水準を表わしていると考えられる。したがって,海成層の上限は最上部層中に存在している。
また,本市地区における海成層の下限は,H-3コアの分析結果より,下部砂泥層中の−14.50m〜−15.00mの区間に推定される。
上述の2地区より上流でのデータを得るために,本郷町の余井地区でハンドオーガーによって試料を採取した。採取地点は,沼田川から約600m北方で,仏通寺川から100mほど離れた場所であり,付近一帯は沼田川の後背湿地にあたる。この地点では,−0.7m (深さ5m) まで掘削し試料を採取した(注4)。この地点での地層は,部分的に砂層が挟まっているが全般に粘土が多い。
分析の結果,+0.70mまでの試料からはFeS2は検出されず,+0.25mで0.048%,−0.38mでは0.876%,−0.65mでは1.488%であった。したがって,本地点における海成層−陸成層の境界は,+0.25m〜−0.38mの間に推定される。−0.38m,−0.65mの2点では,他の地点でのデータよりも数値が非常に大きいが,これは,佐藤裕司 (1989) が説明しているように,干潟や塩水性湿地のような環境で堆積したためと考えられる。この地点と下流の沼田低地との間には,両側から丘陵が迫った狭窄部が存在しているが,本郷低地全域が離水する直前において,この狭窄部を境界にして,それより上流側 (本郷低地) は水の流動があまりが盛んではない汽水環境の湿地,下流側 (沼田低地) は瀬戸内海との間で海水の流動が比較的活発な内湾という環境があったことが推測される。
本地点はハンドオーガーによって試料を採取したため,−0.65m以深のデータはない。しかし,海成層の上限を含む砂泥層は,深度・層相より最上部層の下部にあたると考えられる。
これらより,沼田川下流平野の沖積層の堆積構造について考察する。海成層の下限は下部砂層中に存在する。その深度は,河口付近では,E-1コアの−21.65m以深からE-3コアの−19.00m付近まで幅があるが,本市付近では−14.50m〜−15.00mの区間にある。海成層の上限は,河口から約9km上流の本郷町余井付近においても+0.25m〜−0.38mの区間内とほぼ現海水準に近い高度を示しており,本研究においては+0.60mを越える高海水準期が過去にあったとは認められない。
本研究では試料を分析した地点が少なかったため,海成層の内陸側への限界は,本郷町余井地区より上流にさかのぼることはできなかった。しかし,分析した3地区間における海成層下限・上限の推移する勾配から考えて,完新世の海成層は少なくとも本郷町中心部付近までは達すると考えられる。
しかし,それは文献的には認められているものの,その位置については考古学的に明らかにされていない。これまでの研究 (藤田,1987;河合,1977) では,沼田本市は現在の三原市沼田東町大字本市付近の沼田川南岸の自然堤防上に,また新市は沼田川の北岸に本市と向かい合うかたちで位置していたと推定されているが (第1図),最近この沼田本市遺跡について広島県立歴史博物館が行なった調査結果では,15世紀以降の集落の存在は確認できたものの,それよりも古い時代については推定された場所に市が存在していたという積極的な証拠は発見されなかった (広島県立歴史博物館,1994)。本章では,沼田本市遺跡周辺の地形環境について考察し,地形学の面から沼田市の立地について検討する。
沼田市があったとされる一帯は,標高2m以下の低湿地が大半を占めており,中世以降の干拓が行なわれるまでは満潮時に海水が侵入してくる「塩入荒野」であった。上流側の荻路と近広との間の狭窄部では西から沼田川と仏通寺川が,さらに北からは小坂川が合流し,南東に向かって低地に流れ込むため,付近は流路の不安定な場所に当たっている。
また,空中写真をもとに作成した地形分類図 (第2図) では,本市の南東の亀山と片島との間に旧河道がみられる。亀山の南からは,大木をくりぬいて作った船(注6)が出土しており,葦が生い茂る塩入荒野の中を流れるこの河道を通って,沼田市と周辺地域や沖合いの貿易船との間を船が往き来していたというような歴史景観も想像できよう。
一方,沼田川の北岸にも同様な微高地がみられるが,こちらは範囲が狭い。これは西側にある丘陵の影となり堆積があまり進まなかったためと考えられる。北岸にある孤立丘の鶴山の東側および北側は埋積が進まなかった上に,南側の出口を沼田川の (埋没) 自然堤防でふさがれ,特に低湿な環境になっている。藝藩通志の絵図には鶴山の東に「鶴ヶ巣沼」という沼が記載されている。
第5図および空中写真判読をもとに作成した微地形分類図が第6図である。何本かに分かれて流れる旧河道がかつての塩入荒野へ向けて流下しているが,流路から離れた片島の北側や沼田川からみて丘陵の影に位置する近広の南側には広く埋め残された低湿地が広がっている。
広島県立歴史博物館は紡錘状の微高地を中心に5地点でボーリング調査を行ない,また,12ヶ所でトレンチ発掘調査を実施した。それらの結果と筆者がボーリングステッキを使って得た調査データをもとに,本市周辺の地質断面を作成した (第7図)。図中のB−B'は本市橋の南岸たもと近くから片島へかけての南北方向の断面図である。本市周辺では,海成の上部砂層の上に沼田川により運ばれた砂が約6mの厚さで堆積している。しかしその層相は一様ではなく,一部では暗灰色のシルト混じり砂の層を挟んでおり,河道の変遷などにより堆積環境が変化していたことを物語っている。この陸成砂層は,現在の沼田川の堤防から250m前後離れたあたりまで分布している。それよりも南側では,粘土・シルトの堆積する非常に軟弱な地層となっており,ここから採取した試料中には,葦と思われる植物片がしばしば見られる。このように,沼田川沿いでは海成層の上に河成の砂が堆積し,それより南側では湿地性の粘土・シルトが堆積しているという表層の地質は,等高線図・地形分類図により明らかになった沼田川沿いの微高地 (自然堤防) とその背後に広がる低湿地とによく対応しており,両者の対比がより鮮明になってくる。
この結果は,沼田本市が現在の沼田神社北側の紡錘状の微高地上にあったという従来の多くの人による推定に疑問を投げかけるものである。従来の説の根拠として江戸時代後期に編纂された藝藩通志の絵図が挙げられるが,鎌倉時代に市が成立した以降,江戸時代まで市の場所が固定していたという証拠はない。すでに述べたように微地形から考えても,このあたりでは河川の氾濫が頻発したことが容易に想像でき,それに伴い集落の位置が移動した可能性も高い。広島県立歴史博物館の発掘調査では,紡錘状の微高地内から15世紀以降の遺物が発見されたものの,14世紀以前の遺物は発見されていない。
一方,旧河道の西よりの近広から現在の本市集落の西部にかけては,比較的安定した広い微高地があり (第5図のB−B'より西側の標高2.5m以上の微高地),また,周辺の丘陵の山麓も人間活動に適した場所を与えていたと考えることができる。藤田 (1987) は,現在の沼田東町本市地区において,市が存在したと思われる2つの場所を求めている。そのひとつは,従来沼田本市があったと推定されてきた紡錘状の微高地であり,もうひとつは,上述の西側の微高地に対応する場所である(注7)。
以上のことをふまえ,鎌倉時代には現在の沼田神社付近の自然堤防は未発達であり,本市は西側の微高地に立地していたと,筆者は考える。その後,上流の本郷低地で干拓のために築堤が行われると,沼田低地では洪水が激化し,それによって自然堤防の発達が促された。さらにその後,沼田低地においても築堤が行われると洪水被害が減少し,15世紀以降は市場集落は水運に便利な河岸の紡錘状の微高地に立地したと推定される。
また,新市があったとされる沼田川北岸は,先に述べたように沼田川の堆積の影にあたっており,南岸に比べ微高地の規模は小さく,長い間低湿地が広がっていた可能性が高い。市場集落が立地し得るだけの自然堤防の発達には,南岸よりもさらに時間がかかったと考えられる。
その後海水準の上昇が停滞すると,海岸線は少しずつ前進に転じた。しかし,沼田川水系による土砂の堆積作用はあまり活発ではなく,平野の形成は遅れた。平野が拡大していく間,海水準はほぼ一定に保たれたままであり,最高でも+0.6m以下である。
本地域においては条里制遺構とみられる明瞭な地割りは確認されなかった。平野の大部分は中世以降の干拓により陸化したと考えられる。また,縄文海進以降の海水準の微変動に対応して形成された明瞭な完新世段丘も見られない。しかし,沼田川沿いに地形断面図 (第8図) を作成すると,狭窄部のところで傾斜変換点が見られることから,狭窄部で区切られた盆地状の区域ごとに堆積が進んでいった可能性がある。
中世に沼田低地に存在していた沼田市遺跡の立地環境に関する検討から,沼田川河岸の自然堤防は,中世前半にはそれほど発達しておらず,後半になってから発達したと推定される。その要因としては,上流での築堤による下流での洪水の激化など,人為的影響も大きく作用した可能性があるが,この点に関しては,高橋 (1995) などとの対応の観点からさらに検討する必要がある。
三原デルタは近世まで離水しておらず,北端の山麓の旧三原城下町一帯は,中世には三原浦とよばれていた。1567年に小早川隆景が海上交通の要所として築城した三原城は,海上にあった島に築かれたものである (河合,1977)。近世に入ると三原デルタは北西部から干拓が行われたが,その大部分は近代以降における干拓・埋立てにより離水した。
本研究対象地域をはじめとする瀬戸内海中部北岸の臨海平野は,地形形成が遅く,中世以降に成長した部分が大きい。そのため低地部には条里制遺構や遺跡はほとんど分布しておらず,また市街化が進んでいることから,それらや現在の地形条件だけを手がかりにして歴史時代における地形環境の変遷を明らかにすることは難しい。しかし,古代のものよりもはるかに多く存在する中世から近世にかけての古文書を分析することによって,詳細かつ正確に古地理を復原できる可能性がある。その際,デルタの最前線における地形変化だけでなく,洪水の要因となる上流部での人間活動などにも注目しておく必要があろう。これらは今後の課題としたい。
本稿を作成するにあたり広島経済大学の藤原健藏先生,広島大学文学部地理学教室の中田 高先生をはじめとする諸先生方および院生諸氏には終始ご指導いただきました。厚く御礼申し上げます。また,広島県立歴史博物館の佐藤昭嗣氏には沼田市遺跡調査に関する多くの資料・情報を提供していただきました。北九州高専の白神 宏先生にはFeS2含有量分析の方法について御教授いただき,広島大学大学院生 (当時) の細矢卓志氏にはテフラの同定を快く引き受けていただいた。さらに,ボーリング資料・分析試料の収集にあたっては,復建調査設計株式会社福山支社の中川一安氏,本郷町在住の小島重彦氏,広島県三原土木建築事務所の皆様をはじめとする多くの方々のお世話になりました。ここに深く感謝いたします。
本稿は1995年1月に広島大学文学部に提出した卒業論文をもとに加筆修正をおこなったものであり,その一部は1995年度地理科学学会春期学術大会において発表した。
本ページは,「地理科学」第51巻,第4号,pp.237〜251 に掲載された論文をもとに,コンピュータの特性を活かすよう加工・編集を施したものである。
※ブラウザによってはマルチウインドウになっている場合があります。ご注意ください。