8. 中観派ーー空観

 信仰を主とする大乗仏教にも、その教理に対する知的な考究が行われた。まず登場するのが中観派である。

 中観派の祖は、2世紀後半から 3世紀前半にかけて活躍したナーガールジュナ(龍樹)で、その主著は『中論』である。ナーガールジュナは、般若経典の般若波羅蜜の解釈を主眼として、空の思想を理論化した。あらゆる存在(一切法)は、縁起によって成立しており不変の独自性はもたない(無自性空)とする見方に立つ。18)

 一切が空であるとする見方(空観)は、すべてが虚無であるとするニヒリズムのようにきこえるが、そうではない。<空>と<無>は似ているがまったく異なる。この派が、「中観派」と呼ばれるのは、世界を<実在>とする極端説と<虚無>であるとする極端説のどちらからも離れた中道をとるからである。

 では、有(実在)でもなく無(虚無)でもない<空>とはどのようなあり方か?  日常生活において、普通われわれは見えているものを実在すると考える。何らかのものxが存在しており、それに対して「xがある」ということばが使われるのだと考える。存在するものは本や机、鉛筆であったりする。しかし、それらのあり方について再検討し始めると、はじめの確信はあやしくなる。

 ものをどんどん拡大して、極小の構成要素の集まりという姿で見るとき、「本」としてあったものは本ではなくなる。逆にそのものからどんどん遠ざかり、極大の視点から見るとき、やはり「本」は消える。

 「本当にある」と思われているものが実は、われわれの眼に見えるものの大きさの次元でのみ成り立っており、「xがある」ということは、<xを見るもの>(われわれ)との関係の上に成立していることが顕わになる。

 さらに「xがある」というとき、「x」はことばである。普通、xというものがあり、それに対して「x」ということばが与えられるのだと考えられる。いいかえれば、xには「x」と呼ばれるべき<x独自の不変の本質>があるから、「x」ということばが適用されると考えられる。しかし、xの存在は<見るもの>に依存しているので、<x独自の不変の本質>なるものは、実は存在しない(xは無我・無自性である)。「x」ということばが適用されるのは、xを他のものから識別しようとする心のはたらき(分別)があるからである。

 xは他のものとの相関関係において成り立っている。(xは他のものとの相互依存関係によって縁起するものである。)

 xなるものが「ある」と知られるのは「x」なることばにもとづく。(一切は戯論すなわちことばの虚構による。)

 xは「x」が適用されたもの、すなわち考え出されたものであって、真の意味では存在しない。有ではない。しかし、そこに何もないわけではない。何もなければ、ことばを当てることはできない。だから無でもない。有でもなく無でもない。現象するすべてのものは、そのようなあり方をしている。存在しているが、それ独自の存在を欠いている。いわば空っぽな存在。このようなあり方が<空>である。

 ナーガールジュナは、これを飛蚊症という眼病のたとえで説明する。飛蚊症にかかると、毛筋のようなものが見える。それは見えているだけで、存在してはいない。有ではない。しかし、飛蚊症がなおると、それはなくなる。無であるものがなくなることはないから、無であるとはいえない。毛筋のようなものは、有でも無でもない。<空>である。現象するすべてのものが、これと同じあり方をするという。

 さて、この世界における現象のすべては<縁起>によって現れてくるが、それらは<空を本質とする>(空性)と説かれる。それらは、かならず何かにもとづいての仮の現れでしかない。さらに、このようなあり方をしているものは、また<中道>にほかならない。というのは、あらゆるもの、あらゆることがらが、かならず他のもの、他のことがらと<相互に依存する関係>の上にはじめて成立し、自己同一を保つ実体的なものやことがらは何もないからである。

 このようにことばの虚構の上に成立している現象世界において、分別をはたらかせることによって、行為と煩悩が生まれる。それらは世界を<空なるもの>と見ることによって、滅することができる。<分別>を否定し、ことばによる思考・判断に惑わされることなく、一切を<空>とみるものの見方、これこそが般若波羅蜜、すなわち<智慧の完成>である。19)

 このような立場から、ナーガールジュナは、世界を構成する要素(ダルマ)を実在とする説一切有部や「牛(x)」には「牛(x)」として認識される根拠として「牛の普遍(x-性)」が実在するとするヴァイシェーシカなどの実在論をとる諸学派を鋭く批判した。


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 18) 梶山雄一・上山春平『空の論理<中観>』(「仏教の思想」第 3巻、角川書店、1969年)

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 19) 今西順吉「言語世界の構造とその破壊ーー『中論』の言語哲学について」(『印度哲学仏教学』第 2号、1987年)57頁以下。 【本文へ】