9. 論争を避けること

 執着してはならないということは、自分の見解・信条についても求められる。

「自分の見解に対する執着を超越することは容易ではない。」(Sn.785.)

 理想として追求されるべき安らぎについてすら、こだわってはならないとされる。

「一切の戒律や誓いを捨て、(世間の)罪のある、あるいは罪のない行為を捨てて、「清浄である」とか「不浄である」とかいって欲求を起こすこともなく、それらにとらわれずに行え。----(目指すべきものとされる)安らぎに固執することもなく。」(Sn.900.)

 したがって、自説にこだわり論争することは避けよ、と説かれる。これについては、当時のインドの思想状況とかかわりがある。

 どのようにすればこの世の苦しみから解放されるか。この問題意識はブッダと同時代のインドの思想家たちに共有されていた。ブッダの他にも多くの思想家が教理を立てた。さまざまな説が唱えられ、その違いから活発な論争が行われた。

「ある人々が、真実だ、正しいということを、他の人々はうそだ、間違いだと争って議論する。なぜ修行者たちは同じことを説かないのか。」(Sn.883.)

 論争では、安らぎを得るための智慧の追求が、論敵に勝つための理論の追求に変わる。しかも、日常経験の範囲を越えた形而上学的な問題が扱われる。それらは経験によって確かめられない。肯定・否定の両論がならびたち、決着はつかない。

「世の中に多くのさまざまな永遠の真理があるわけではない。ただ想像して立てられているだけである。独断的な見解にもとづいて推論を立て、これが真理だ、間違いだと両極端の教えを説いているのである。」(Sn.886.)

 論争は、論争のための論争に陥る。ブッダはこれを無用と考えた。論争を避けることは随所に説かれる。

「自説にこだわり、これこそ真理だと論争する人々はみな、非難をうけるか、あるいは、時には賞賛をうることもある。くだらないことである。心の平静のためになることではない。論争の報酬は(非難と賞賛の)二つだけである。これを見きわめ、論争を避けよ。心の平安をめざすとは、論争しない境地に立つことである。」(Sn.895,896, cf. Sn.824-834、837ー847、878ー894.)

 あらゆる立場への無執着が強調され、極端説だけでなく、中間にもとらわれないことが説かれる。

「知者は両極端を知りつくし、中間にもけがされない。そのような人をわたしは、偉大な人という。そのような人はこの世で、縫いつけるもの(妄執)を超越している。」(Sn.1042.)


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