「地理月報」 第543号 (二宮書店発行)

多文化国家スイス

独立行政法人国立高等専門学校機構  沼津工業高等専門学校  佐藤崇徳

 スイスは小さな国でありながら,アルプス山脈の美しい景観や「アルプスの少女ハイジ」の物語など,多くの日本人には何からのイメージがあり,比較的知名度の高い国だろう。そして,文化の多様性や,自然環境と人間の営みとの関係など,地理的に重要な話題があり,地理の授業で取り上げるのに適した国でもある。

1.授業の導入は…

 スイス地誌の授業を行う場合,導入にどんな話題をもってこようか。 アルプス山脈やハイジの話から始めるのが王道だろうが,まったく違う話からスイスの特徴を提示することも考えられる。 筆者は次のようなトピックから始めている。

 www.numazu-ct.ac.jp これは,筆者の勤務校のウェブサイトのURL(アドレス)である。 末尾の「jp」は日本を示している。 では,これに相当するスイスを表す記号は何であろうか。 筆者が勤務するのは工業高等専門学校(高専)であり,コンピューターに興味をもっている学生は比較的多いし,情報処理についての専門科目でもURLを含むインターネットの仕組みは学習する。 学生たちは「sw」,「ss」など思いつくままに発言するものの,正解に達することはない。 正解は「ch」である(例えば,スイス政府のウェブサイトは www.admin.ch)。 スイスという語とはまったく結び付きそうにない2文字だが,これこそが多言語国家ゆえの事情に起因している。 余談ではあるが,世界で最初にウェブサイトを開設したのは,スイスにある欧州原子核研究機構(CERN)であった。

2.西ヨーロッパの中央に位置する国

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図1 スイスの地図
(二宮書店『高等地図帳』39ページを一部改変)

 スイスは,西ヨーロッパの内陸にある小国である。 面積は4.1万km2で,日本の九州とほぼ同じ広さである。 国土の南半分はアルプス山脈だが,北側は,北西部のジュラ山脈を除き,比較的なだらかな地形で,中央平原と呼ばれている。 チューリヒ,ジュネーヴなどの大都市は,この中央平原に位置する。

 フランス,ドイツなど5つの国と国境を接しているスイスは,古くからアルプス越えの交通の要衝であった。 筆者の授業では,地図帳(図1)を参照させ,スイスにある峠を挙げさせている。 その一つ,グランサンベルナール峠(英語名:大セントバーナード峠)は,セントバーナード犬の名前の由来になった場所でもある。 峠にある修道院で救助犬として飼われていたのが,この犬である。

 現在でも,周囲の国々との往来は盛んである。 観光やビジネスでの旅行客ばかりでなく,通勤や買い物で日常的に国境を越える人も多く,なかには隣国に農地を持つ農民が国境を越えて耕作していることもあるそうだ。

 鉄道も,TGV(フランス),ICE(ドイツ)などの高速列車がスイス国内の主要都市まで直通運転されているほか,ローカル列車も国境の先の街まで直通する例がしばしば見られる。 なお,EU諸国の共通デザインの自動車ナンバープレートは,欧州旗の下に国を表す識別記号(F:フランス,GB:イギリスなど)が表示されているが,スイスの自動車が国外を走行する場合は,通常のナンバープレートに加えて,楕円の中に「CH」と識別記号を記したステッカーを表示する。

3.4つの国語

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写真1 ディセンティスの風景
アルプスの山あい,ライン川の上流にある。 ルクマニエ峠とオーバーアルプ峠の入口に位置し,歴史ある修道院が建っている。 この一帯はロマンシュ語圏であり,町の名も正式には「ディセンティス/ムステル」とドイツ語・ロマンシュ語の併記となっている。 氷河急行の車窓より筆者撮影。

 このような地理的位置にあるスイスには,異なる文化をもった人々が暮らしており,多民族国家となっている。 スイスの憲法(1999年改正)では,ドイツ語,フランス語,イタリア語,ロマンシュ語(レトロマン語)の4つがスイスの国語とされている。 また,ロマンシュ語を除いた3つの言語が公用語とされているが,「ロマンシュ語話者とのコミュニケーション時は,ロマンシュ語も公用語である」と規定されているほか,言語上の少数派への配慮など,多言語国家としての姿勢が明文化されている。 公的な文書や表示板などでは3つの公用語が併記されているのを目にする(観光施設などでは英語も加えた4言語で表示されていることが多い)。

 いずれの言語の話者が多いかは,地域によって異なっている。 例えば,イタリア語はティチーノ州で主に使われているが,ここはアルプス山脈の脊梁より南側に位置する。 スイスのほかの地域に行くにはアルプスの峠を越えなければならないのに対して,南へ斜面を下っていけば,そこはイタリア,パダノヴェネタ平野である。 また,ロマンシュ語は,スイス全体では話者人口が1%にも満たないが,南東部のグラウビュンデン州の一部地域で使われている。 ここはアルプスの山中に位置しており,主要な街道から外れて外部との交流が少なかった地域で古い言語が残ったのではないだろうか。 なお,グラウビュンデン州を走るレーティッシュ鉄道(氷河急行などで有名)と姉妹提携を結ぶ日本の箱根登山鉄道では,2014年に導入した新型車両に「アレグラ号」の愛称を付けたが,これはロマンシュ語のあいさつ言葉から命名されたそうである。

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写真2 郵便局の表示板
(左)北部にあるスイス第3の都市バーゼルの郵便局。 DIE POST とドイツ語で表記されている。
(右)南部ティチーノ州にあるマッジョーレ湖畔のリゾート地ロカルノの郵便局。 LA POSTA とイタリア語で表記されている。
(写真提供:小柳敦史氏)

 狭い国土の中で地域よって言語が異なっていると,鉄道や高速道路で移動するとすぐに異なる言語圏へと足を踏み入れることになる。 地域によって,街中の看板などの言語が異なっているのは,多言語国家のおもしろさである。 写真2は,2つの都市で郵便局入口の表示板を撮影したものである。 「郵便局」を表す言葉(Die Post / La Posta)や営業時間に関する記載が,バーゼルではドイツ語,ロカルノではイタリア語で表示されている。

 地名自体も,例えば,チューリヒはドイツ語,ジュネーヴはフランス語によるものである。 言語圏の境界に位置する街はどうなっているかというと,オメガやスウォッチが本社をおく時計産業の街,ベルン州のビール(ドイツ語) / ビエンヌ(フランス語)は,一つの街に2つの言語で名前があり,両言語を併記するのが公式表記となっている。

表1 スイスの国名
ドイツ語Schweizerische Eidgenossenschaft
フランス語Confédération suisse
イタリア語Confederazione Svizzera
ロマンシュ語Confederaziun svizra

 スイスという国名の表記はどうなっているのだろうか。 「スイス連邦」に当たる語は,当然それぞれの言語で存在する(表1)。 スイス政府のウェブサイトは,4つの国語と英語のページが用意されているが,いずれのページも冒頭に,連邦の紋章とともに4つの国語で正式国名が表示されている。 紙幣にも4つの言語で表記がなされているが,硬貨や切手など表示面積が限られるものには,ヘルヴェティア(Helvetia)という語が使われている。 これはスイス付近の古い地名で,およそ2000年前にこの地に居住していたヘルウェティイ族に由来する。 スペース等の都合で国名を1つの言語のみで表記する場合,4つの国語からいずれか1つを選択するのは公平性に欠けると考え,ヘルヴェティア連邦を意味するラテン語表記 Confœderatio Helveticaが採用されている。 前述のスイスを表す記号「CH」は,この言葉の頭文字をとったものである。

4.宗教

 スイスでは人口の約8割がキリスト教徒である。 スイスがキリスト教の国であることは,十字架がデザインされた国旗にも表れている。 ちなみに,赤十字のマークは,創設者アンリ・デュナンの祖国であるスイスに敬意を表して,スイス国旗の配色を逆にしてできたものである。

 西ヨーロッパの多くの国々はカトリック,プロテスタントいずれかが国内の多数派を占めているのに対して,スイスでは全人口の42%がカトリック,35%がプロテスタントとほぼ半々となっている。 しかし,国内スケールでみると,どちらの信者が多いかは地域によって異なっており,例えばベルン州ではプロテスタントが多いのに対して,隣接するルツェルン州やフリブール州ではカトリックが多い。 このような宗派の地域差は,言語圏とはまた異なったものとなっている。 しかし,この言語圏と宗教圏の不一致こそが,地域間の単純な民族対立を引き起こさない背景になっているともいわれている。

5.連邦制国家

 ここまで見てきたように地域によって文化が多様なスイスは,連邦制を取り入れている。 国内は26のカントン(州)から構成されており,各カントンが自治権をもっていることで,各地の事情にあった地方自治が行われている。 市町村(ゲマインデ/コミューン)の数は2300余りで,九州ほどの面積にこれだけの地方自治体が存在する点は,広域合併の進んだ日本と比較すると興味深い。

 連邦政府(連邦評議会,内閣)は,議会から選出された7名の閣僚によって構成されるが,大統領は任期1年で,7名の中から交替で務める。 スイスといえば国民投票による直接民主制が有名であるが,大統領は輪番制という意外な仕組みが取り入れられている。 州政府が強力な自治権を持っており,相対的に連邦政府の権限は小さいからこそ,このような制度が取り入れられているともいえる。 首都ベルンが都市圏人口で国内第4位にすぎないのも,こうした事情が背景にある。

 7名の閣僚がそれぞれ議会から選出されることから,結果的に各政党の代表者が連邦政府に参画することになり,言語・宗教などを背景にした多様な意見が反映された政治が行われている。

 州の自治権が大きいということは,各州がそれぞれ小さな国家のようである。 そうした見方は歴史的にも正しい。 1291年にウリ,シュヴィーツ,ウンターヴァルデンの3州が,ハプスブルク家の支配から独立を守るために盟約を結んだのが,今日のスイスの始まりである。 ウィリアム・テルの伝説は,この頃を舞台にしている。 その後,この同盟に加わる地域が増え,現在のスイスができあがった。 つまり,あくまで自治権をもつ地域同士が,対外的な防衛で同盟を結んだだけであり,したがって,スイス人にとっては,州こそが自分たちの“国”なのである。 今でも,スイスの人々は,スイスという国への帰属意識よりも,州や地方自治体への帰属意識が強いと言われている。

6.授業に活用できる地図資料

 ここまで,スイスについて,地理的位置とそれに起因する文化の多様性を中心に取り上げてきたが,こうした地誌学習には地図等の活用が欠かせない。 その点,スイスは地図資料が豊富に利用できる。

 スイス連邦地理局(日本の国土地理院に相当)の地形図は非常に美しいことで有名であるが,日本の国土地理院の「地理院地図」と同様に,スイスの地形図や空中写真画像も現在,オンラインで見ることができる(http://map.swisstopo.admin.ch)。 スイス全体を1枚に収めた小縮尺の地図やランドサット衛星画像なども連邦地理局のウェブサイト(http://www.swisstopo.admin.ch)から無料でダウンロードできる。 また,連邦統計局のウェブサイト(http://www.bfs.admin.ch)では,多数の統計地図を見ることができる。 画面上でインタラクティブに地図を操作できるもの(Statistical Atlas of Switzerland)は,ドイツ語・フランス語のみ対応のようであるが,Map Archive Switzerlandというページ(英語版あり)では,既成のPDF版の地図ファイルをダウンロードできる。 用意されている主題図の種類は豊富で,教材としてはPDFファイルのほうがむしろ扱いやすい面もあり,重宝するのではないだろうか。

 こうした地図資料や美しい景観写真,ビデオ教材などを用いて,受講者の興味・関心を引き出しつつ,スイスの特色について,しっかりとした理解を図る授業をつくっていきたい。


このページは,二宮書店発行の「地理月報」第543号(2015年6月)に掲載された内容を,同社の許諾を得て転載したものです。 本ページを無断で転載することを禁じます。


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