「不殺生と菜食主義」
(北海道印度哲学仏教学会会報、第18号,2004年5月,「窓」pp.12-15原稿)

日本ではBSE(牛海綿状脳症)のために肉不足になり「最後の牛丼」騒ぎが起りました。ヨーロッパでは、BSEが原因と疑われる死者が出て、肉食をやめる人が増えています。しかし、インドは世界のこんな騒ぎと無縁です。近年のめざましい経済成長にもかかわらず、水牛の肉の輸出量は増えているものの、食肉消費は伸びていません。(農水省「海外農業情報トピックス」インド03/09/15)普通、食肉消費量は経済成長とともに増えるのですが、さすが菜食主義大国です。

ところで、なぜインドでこれほど菜食主義が強くなったのでしょう。ジャイナ教や仏教が不殺生を説いたことが、その原因であろうと想像されるのですが、問題は単純ではありません。

まず不殺生は、仏教やジャイナ教が最初に説いたわけではないのです。より古く、『バウッダーヤナ・ダルマ・スートラ』二・一〇・一八にバラモン遊行者の戒めとして説かれています。その他の法典にもヴェーダ学習者や学習修了者の徳目として説かれます。また、『チャーンドーギヤ・ウパニシャッド』三・一七・四にも、苦行・布施・誠実・真実語と並べて説かれています。動物犠牲祭を行うバラモンたちが、なぜ不殺生を説いたのかは謎ですが、不殺生は魂を浄めるとみなしていたことから推定すれば、死の汚れへの恐れが動機だったのかもしれません。

また、初期の仏教もジャイナ教も、不殺生を説く一方で肉食を認めていました。『マハーヴァッガ』六・二三には、施食として肉を出された時、僧はどのような肉か尋ねなければならないという規定が出ます。これには次の因縁話があります。スッピヤーという熱心な女性信者が、世話を求める僧がいないかと精舎を訪ねて、病気の僧から肉の料理を頼まれます。家に帰って下人に作らせようとするのですが、あいにく肉が手に入らず、自分の腿の肉をそいで料理を作らせて食べさせました。こんなことがあったから、先の規定ができたというのです。この逸話が事実かどうかはさておき、当時、出家者も肉食したことがわかります。もっとも無条件で食べていたわけではなく、殺されるところを見ることなく、聞くことなく、自分のために殺されたとは思われないという三種の条件が定められました。(六・三一・一四)この条件に適うものは「三種浄肉」といわれます。ともあれ、四つ足を食べない伝統のあった日本で、肉食するお釈迦さまの姿は想像しにくいのですが、托鉢による生活では、与えられたものなら肉であろうと受けるのは自然です。食を施す人々が肉食をする環境では、菜食主義は成り立ちません。
  
ジャイナ教も、仏教よりはるかに強く不殺生を説きますが、初期では肉食を禁止していません。最古の聖典の一つ『アーヤーランガ』第四〇三節は、骨の多い肉、骨の多い魚は与えられても食べてはいけないと定めますが、骨が多くなければ食べてもよいことになります。一〇世紀頃に書かれた注釈書では、「骨」は「種」、「肉」は「果肉」などと読みかえられます。この頃には肉食忌避が徹底していたようです。

では、肉食忌避は、いつ始まったのでしょう? 前三世紀のアショーカ王の法勅には、生きものを殺すなという表現が印象的にたくさん出ます。その言葉遣いがジャイナ教の用語と似ていることは要注意ですが、目下の論題においてより重要なのは、単に殺すなというだけでなく、肉食忌避の考えが現れることです。ギルナールやカールシー、ジャウガダの岩石に刻まれた碑文には、宮廷で料理のために殺されていた何万もの動物を二羽の孔雀と一頭の鹿に減らしたが、将来はこれらも殺されなくなることが望ましいという願いが述べられます。肉食忌避が願われるということは、現実は肉食が盛んなことを示しています。
 
アショーカ王の法勅が肉食忌避を説いた最初ではありません。法勅はどこかで説かれていた教えを口火として点された燎火に喩えられるでしょう。『スッタニパータ』の韻文部分は前三世紀のアショーカ王以前の成立とされますが、その二・二三九−二五二は一種の肉食弁護論になっています。カッサパ(註釈は過去仏とします)が、とあるバラモンから、鳥肉を食べるくせに生臭い汚れたものを許さないと説くが、汚れたものとは何かと詰問されます。カッサパは、邪悪な生活が汚れたものであって肉食のことではないなどと答えますが、肉食しないことが人をきよめるわけではないともいいます。ここから、当時、肉食忌避に宗教的な価値を認める人々がバラモンあるいはジャイナの間にいたことがわかります。これがいわば口火でしょう。

では、肉食忌避が強くなったのはいつ頃でしょう?前二世紀から二世紀の間の成立とされる『マヌ法典』には、肉食に関する規定があり(五・二六−五六)、肉食を自然とする説、肉食を祭式などの条件付で認める説、肉食を全面的に否定する説が出ます。これら三説は肉食忌避が徐々に強まっていく歴史的変遷の跡を留めるという解釈がありますが、肉食自然説は、最古というよりむしろ肉食否定説が勢いを増した後に生まれたのでしょう。『マハーバーラタ』一二・一五・二二にも、動物も植物もすべて人の命の糧で、人が生きるには殺生による肉食が不可避だという主張が出ますが、菜食主義がインドに広がって侮り難い勢いをもつに至った時、肉食の習慣を持つ人々が声をあげざるを得なくなって生まれた主張と思われます。四世紀の成立とされる『大乗涅槃経』如来性品には三種浄肉も含めて肉食の禁止が説かれます。五世紀初めにインドを旅した法顕は、肉食が下層階級にかぎられていると記録しています。アショーカ王法勅の点した燎火は、着実に大きくなっていったようです。情報の寿命は媒体の重に比例するというメディア論の法則があるそうですが、岩に刻まれた願いがインドを不殺生と菜食主義へ導きつづけたといえるかもしれません。

話を日本に戻します。今の若い人たちに、かつて日本もインドのように動物を食べない習慣があったといっても、きっと遠い昔のことだと思うでしょう。実は、四十年ほど前の日本の食生活は、栄養という点でインドと大差がなかったのです。中山誠記『食生活はどうなるか』(岩波新書一九六〇年)十九頁の「栄養状態の国際比較1957年」によれば、一日当たりに摂取する肉・乳・卵類は、アメリカ1084、日本59、インド98カロリーです。当時、日本の動物性食品は魚が過半数で肉はわずか12%、年間1人当たり三キロ強の消費でした。

明治四年に宮中で肉の禁令が解かれ、五年には僧の肉食も許されました。福沢諭吉は新聞で肉食を勧め、服部誠一(撫松)の『東京新繁昌記』は、明治初期に東京で牛鍋店が増える様子を描いています。肉食が文明開化とともに盛んになったかのようですが、実はそうではありません。牛鍋店が増えはしても、庶民の食卓に肉が上ることはあまりなかったのです。テレビドラマの「おしん」に描かれた通り、明治から大正にかけて地方では白米すら満足に食べられず、東日本では干し菜を炊き込む大根飯(かて飯)、西日本では粥が普通でした。明治一〇年ごろから昭和初期まで日本経済は大成長して国民所得は約七倍に伸びましたが、食生活改善は米の消費の伸びとして現れて、年間一人当たり百二十キロから百六十キロに増えました。肉の消費も伸びましたが目覚しくはなく、明治末から昭和初期までの二十年間で、卵三・二倍、牛乳二・八倍、魚二・四倍に対し、肉は一・七倍でした。

食肉消費量が急激に伸びるのは一九六〇年以降です。その後三〇数年で十二倍と爆発的です。九五年には年間一人当たり四四キロに達して頭打ちになりました。アメリカの百二十キロには遠く及びませんが、今では肉食大国です。一方、米の消費量は、二〇〇〇年で年間一人当たり六五キロ。一九六〇年の半分ほどに落ちています。一九五〇年代後半、私が小学生の時、給食の肉を食べられない子がいました。食べたことがなくて気味が悪かったのです。教室に残されて食べる姿をおぼえています。私が目撃したのは「四つ足は食べない」という伝統の末端だったようです。

日本で最初の肉食の禁令は、天武四年(六七五年)四月の禁令とされていますが、四つ足を食べない伝統の起源は、はるかに古いかもしれません。漢字で人倫の根幹をあらわす義、美、善は、どれも「羊」から作られていて中国文化が牧畜を基盤とすることを示しています。日本は、さまざまな中国の文化を受け入れましたが、経済基盤はまったく異なります。『後漢書』「倭伝」に日本は「土気は温かくなごやかで、冬も夏も野菜が生産され、牛・馬・虎・豹・羊・鵲はいない」と紹介されます。この表現は『魏史』「倭人伝」の狗奴国の記事と似ており、紋切り型で忠実な描写ではないかもしれませんし、また遺跡から骨が出るので牛馬もいたのですが、しかし、牧畜でなく畑が目立つ風景だったことは確かでしょう。肉(シシ)も食べてはいたけれど猪、鹿(カノシシ)で、狩猟によるものが主でした。コーサンビーは、インドの菜食主義が豊かな農作物を生み出すインドの大地を抜きには成り立たないことを指摘しますが、同じことが日本の風土にもいえるでしょう。仏教の影響をうける以前から、日本には米を柱とする肉食に依存しない食文化が確立されていたようです。

奈良時代以後、朝廷は繰り返し肉食禁令を出しました。戦国時代は肉食がある程度盛んになるのですが、米を経済の根幹とする体制が江戸時代の石高制で完成すると、肉食禁令も徹底されて一七世紀後半、江戸に肉を扱う店は消えたとされます。一方で、江戸時代は朱子学の合理主義が広まった時期でもあり、仏教の輪廻説に基づく不殺生の教えに対して皮肉な見方も現れます。洒落本作家の振鷺亭が寛政元年(一七八九年)頃に出したとされる『室の梅』に、お坊さんから、生きものを殺せば来世でその生きものになるぞと脅された猟師が鉄砲に弾をこめてお坊さんを狙うので、何をすると聞くと「あなたを殺して坊主に生まれて助かろうと思います」と答える話が出ます。

すでに江戸時代から合理主義的な考え方が育っていて、明治初期、その土壌に福沢輸吉らが蒔いた肉食肯定の種は、すぐには芽を出さず、食肉消費量の伸びに結びつかなかったけれど、肉食を受け入れる傾向は着実に成長して、第二次大戦後、政府が栄養改善運動にのりだし学校給食で肉が出されると、流通革命でスーパーが全国くまなく商品を行き渡らせるようになったこともあいまって、肉食文化はいっきに花開いたのでしょう。インドと日本の差はこのあたりにありそうです。

戦前、海軍の洋食主義に対して陸軍は米食主義をとりました。立案者は森鴎外で、米が栄養学的に優れていることを分析し、「日本兵食論大意」(明治十八年)などの論文によって米食を勧めました。米を支持した理由の一つのは、それが日本の伝統であることです。今、日本はどんどん米英の栄養バランスに近い食生活に向かっていますが、これからも長寿国の名声は保てるのでしょうか。(野沢正信)