ヤージュニャヴァルキヤ
「非らず。非らず」 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 4.5.6
6. 彼はいった。
ああ、実に良人に対する愛のために良人がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために良人はいとしいのだ。
ああ、実に妻に対する愛のために妻がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために妻はいとしいのだ。
(中略)
ああ、実に生き物に対する愛のために生き物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために生き物はいとしいのだ。
ああ、実に万物に対する愛のために万物がいとしいのではない。
アートマンに対する愛のために万物はいとしいのだ。
実に、アートマンこそ見るべきもの、聞くべきもの、考えるべきもの、認識すべきものなのだ。
マイトレーイーよ。ああ、アートマンさえ見られ聞かれ考えられ認識されたなら、万物が知られるのだ。
15. いわば二元対立というものがあるならば、
その場合、一方が他方を見る。その場合、一方が他方を嗅ぐ。
その場合、一方が他方を味わう。その場合、一方が他方に語る。
その場合、一方が他方を聞く。その場合、一方が他方を考える。
その場合、一方が他方に触れる。その場合、一方が他方を認識する。
しかし、人にとってすべてがアートマンそのものとなったとき、
彼は何によって何を見るのであろうか。彼は何によって何を嗅ぐのであろうか。
彼は何によって何を味わうのであろうか。彼は何によって何を語るのであろうか。
彼は何によって何を聞くのであろうか。彼は何によって何を考えるのであろうか。
彼は何によって何を触れるのであろうか。彼は何によって何を認識するのであろうか。
この世の万物がそれによって認識するその当の本体を、人は何によって認識できるのか。
この『非らず。非らず』(neti neti) という(ことばでのみ表される)アートマンは
捉えることができない。捉えられないから。
壊れることがない。壊されないから。
こだわりがない。こだわらないから。
つながれず、動揺せず、損なわれない。
ああ、認識の主体を何によって認識することができようか。
これで、マイトレーイーよ。お前は教えを受けた。
ああ、実に不死の本質とはこれだけのことだ、と語り終えると、
ヤージュニャヴァルキヤは、遍歴行者の生活に入った。
業の思想 『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』 3.2.13
13. ヤージュニャヴァルキヤさん、とアールタバーガはいった。
この世の人が死んで、そのことばは火に、気息は風に、目は太陽に、思考力は月に、
耳は方角に、からだは地に、アートマンは虚空に、毛は草に、髪は木に帰入し、
血液と精液は水中に帰るとき、この人はどうなりますか。
アールタバーガさん、私の手を取りなさい。
この話は二人だけでしましよう。人中で話すべきことではない。
彼ら二人はその場を立ち去り、話した。
彼らが語ったことは、<業>についてであった。
彼らが称えたことは<業>であった。
実によい行いによって人はよくなり、悪い行いによって人は悪くなるのである。
こうして、ジャーラットカーラヴァ・アールタバーガは沈黙してしまった。