6. 欲望と智慧(欲望を制するもの)

 欲望(kaama)が苦しみの原因であるという考え方は、ブッダ当時のインドの通念であったといってよいであろう。『スッタニパータ』第四章は、「欲望」と名づけられた経(kaamasutta)ではじまる。

 「欲望をもち、欲求をおこして、欲望が果たせないと、人は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」(Sn.767.)

  「田畑・土地・黄金・牛・馬・召使・女性・親族など、さまざまな欲望に人が執着するならば、(欲望は)力を用いることなく、その人を征服し、災難がその人を踏みにじる。それから、苦しみがその人につきまとう。難破船に水が入りこむように。」(Sn.769,770.)

 では欲望を制するものは何か。ブッダは欲望を制するものとして智慧を重視する。この立場は、当時勢いのあった苦行主義と対照的に異なる。後者は、欲望と欲望にもとづいて行われた行為の結果(業)を心についた物質的な垢とみなし、肉体的苦痛を耐えることから生ずる熱力によって、それを払い落とそうとする。これに対し、ブッダは欲望を心の働きとみなし、苦行ではなく、真理を悟る智慧によって、欲望は制することができると説く。1)

 「この世におけるあらゆる(欲望の)流れをせき止めるものは、思念である。(思念が)流れを防ぎまもる。智慧によって流れはたたれるであろう。」(Sn.1035. cf. Dhammapada 339,340.)

 「わたしは世間において疑惑に惑う人は誰も解脱させることができない。ただ最上の真理を知るならば、あなたはこの激流をわたるであろう。」(Sn.1064.)


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1)  後には煩悩を制することが重視されるが、原始仏典には煩悩(kilesa)という語はあまり現れない。kilesa(梵語でkleśa)とは「汚すもの」の意味で、正しい心の働きを阻害するものである。悟りへの到達を妨げるものとして関心を集め、貪欲・怒り・迷妄(貪・瞋・痴の三毒)をはじめ、百八煩悩等さまざまな分類が行われた。十二縁起は、部派仏教の教理では惑・業・苦の三部分に分けられるが、そのうちの惑、すなわち「根源的な無知」「本能的な欲望」「執着」が煩悩である。 【本文へ】