ヒンドゥー教の特徴の一つに、多元的な信仰の共存があげられる。宗教の坩堝といわれるほど多数の信仰が、それぞれの独自性を保ったまま、対立し衝突する危険をたえずはらみながらも、共存・共栄している。
このような状態を支えている精神は、寛容(tolerance)というよりも、包容主義(inclusivism)といわれる。1)
「寛容」は、多くの国の憲法に規定される「信教の自由」を根底で支える理念としてはたらく概念である。信教の自由は、キリスト教圏である西洋において、宗教の違いから生まれる軋轢、とりわけ16世紀以後の新教・旧教の凄惨な対立抗争から生まれた不幸を回避するために確立された権利である。この文脈において「寛容」とは、どの宗教を信じようと、あるいは信じまいと、その選択が自由であることを、法に規定された個々人に平等な権利として、互いに認め合うことである。ジョン・ロック(1632-1704)らの思想家たちが、近代産業の勃興と市民階級の台頭にともなう人権思想の発展のなかで育んだ概念である。
包容主義は、自由・平等を基盤とする寛容とは異なって、むしろ、自分の信仰が絶対正しいという確信のもとで、それでもなお他の信仰を排除するのではなく、それらにも何がしかの良さを認め、その程度によって序列化して、自分の信仰を最高とする体系の中に包含してしまうものである。2)
『バガヴァッド・ギーター』の第9章23-24にはそのような思想が鮮明に表れる。 (辻直四郎訳『バガヴァッド・ギーター』講談社、1980年、p.154)
ヒンドゥー教は、大きくヴィシュヌ派とシヴァ派に分けられるが、ヴィシュヌ派は唯一の神に信仰をささげる排他的な立場(ekāntivāda)をとり、他派のマントラを唱えることを厳しく禁じる。3) さらに細かく分ければ教派の数は極めて多数にのぼり、それら教派間で、深刻な宗教対立が起こる危険は常にあったし、現に暴力的な衝突は幾度となく起こった。4) 『バーガヴァタ・プラーナ』4.2以下は、シヴァの排斥とそれに対する暴力による報復を描くが、何らかの史実を反映しているのであろう。5) しかし、こうした排他的な側面を修復する融和の装置がヒンドゥー教にはあった。それが包容主義である。
他派の教義を排他的に拒絶することなく、それらの中に容認できる要素は認めようとする包容主義の土壌において、ブラフマー・ヴィシュヌ・シヴァの3神格が役割を分担する「トリムールティ説」が生み出され、さらには、ヴィシュヌとシヴァが互いに両派の教説に現れるヒンドゥー教の神話世界の多様性が育まれた。6)
包容主義に関連する重要なこととして、インド古来の対話・対論を尊重する伝統が指摘できる。
対話形式による表現は、すでに『リグ・ヴェーダ』に認められ、7) ウパニシャッドには牛などの賞品や生命が懸けられる宮廷での討論などの記述がいくつも現れる。8) プラトン対話篇の「ソクラテスの対話」とはいささか趣きが異なっているが、その思想的な意義は深い。9) そして、その後の時代には、非難の応酬に終わることのない創造的な対論の方法と形式の模索が行われ、10) 対論を有効な仕方で成り立たせる確固とした伝統が築かれて、その後も脈々と引き継がれ、インド論理学の形成に寄与した。11)
詭弁の一種に、対論者の主張を批判がしやすいように意図的にゆがめる「わら人形論法」(straw man argument)というものがある。古今東西を問わず口論にはよく用いられるが、インドの哲学思想文献では、この詭弁が皆無とはいわないけれども頻発することがない。原則として対論者の主張は忠実に伝えられる。批判は、対論者の主張を正確に理解した上で行われるものでなければ真の批判たりえないので、それは当然のことであるが、その当然のことがインドでは伝統にされた。インド思想史研究においてオリジナルの文献が散逸してしまった思想の研究が可能なのは、この伝統のおかげである。12) このような対論者の主張をゆがめることなく理解した上で批判する精神風土において、包容主義は、有効に機能して教派間の深刻な分裂を回避させ、ヒンドゥー教の統一性を保ったと考えられる。
1) Jan Gonda, Visnuism and Sivaism, London 1970 (rpt. New Delhi 1976), p.95.
2) その典型例として挙げられるのは、14世紀、ヴェーダーンタ学派不二一元論派の立場から書かれたマーダヴァによるインド諸思想の概説書、『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ』(全哲学綱要)である。全文の和訳は、中村元『インドの哲学体系』(中村元選集[決定版]、第28,29巻、春秋社、1994,95年)がある。また、これに類する書がほかにも多くあることについて中村元『インド思想の諸問題』春秋社、昭和42年、p.252以下参照。
3) Jan Gonda, ibid. p.93.
4) W.R.Pinch, "Soldier Monks and Militant Sadhus,"(Contesting the nation: religion, community, and the politics of democracy in India, ed. by David E. Ludden, 1996) pp.140-161.著者によれば、インドにおける教団の武装化は、もっぱらイスラム勢力に対する対抗措置であるという20世紀初頭のFarquhar説が流布しているが、18世紀、ハルドワールでのクンブ・メーラ祭の利権をめぐるシヴァ派、ヴィシュヌ派間での武力衝突を伝える碑文資料などによれば決してそうとはいえない。
5) ブラフマーの子、ダクシャにサティ―という娘があり、親の反対を押し切ってシヴァのもとに嫁ぐ。ダクシャは激しくシヴァを憎み、祭の時、義理の息子でありながら自分に敬意を示さないシヴァを激しいことばで呪う。次の祭の時、シヴァは招かれなかった。サティーはシヴァがとめるのも聞かず、ダクシャの祭に出かけ、父の激しいシヴァへの憎しみを聞かされ自ら命を絶つ。その知らせを聞いたシヴァは巨人ヴィーラバドラを化作して従者たちにダクシャの祭場を襲わせる。シヴァによるダクシャの祭の破壊の話は『マハーバーラタ』12.274.18以下、『スカンダ・プラーナ』第1部マヘーシュヴァラ篇などにも出る。
6) クリシュナの聖地ヴリンダーヴァンにあるシヴァ寺院の建立にまつわる伝説は、両派の協調関係をよく表す。山崎元一『古代インドの文明と社会』中央公論社、1997年、p.260参照。
7) 「ヤマとヤミーの対話」(10.10)「サラマーとパニの対話」(10.108)「ヴィシュヴァーミシュラと河神の対話」(3.33)など。辻直四郎ほか『インド集』筑摩書房、昭和34年、p.25f.参照。
8) 桂紹隆『インド人の論理』中公新書、1998年、p.82.
9) B.K.Matilal, Logic,Language and Reality, 1985 Delhi, p.9f.
10) 『ミリンダ王の問い』(成立、前1世紀から後1世紀頃?)には、「対話を成立させる条件」が説かれる。(原典PTS版pp.28,29) 中村元、早島鏡正『ミリンダ王の問い 1』東洋文庫、昭和38年、p.76参照。
11) インドでは、仏教論理学派やニヤーヤ学派による論理学の確立に至る過程で、詭弁や誤った論難の問題がさまざまに論じられた。その一端は、医書『チャラカ・サンヒター』などに記録されている。桂紹隆『インド人の論理』p.96f、『宇井伯壽著作選集』第1巻、大東出版社、昭和41年、p.85f.参照。
12) たとえば、仏教論理学の確立者ディグナーガ(c. 480-540)が他学派の思想をいかに正確に伝えているかについては、Masaaki Hattori,"Dignāga, on Perception", Harvard University Press, 1968 参照。
関連する概念として、17世紀英国、王政復古期におけるcomprehensionも興味深い。当時の政界で活躍したサミュエル・ピープス(1633–1703)の日記、1668年2月5日(水)と10日(月)の項参照。 (http://en.wikisource.org/wiki/Diary_of_Samuel_Pepys/1668/February)
次に示す訳文は、桂紹隆『インド人の論理』p.95からの引用である。
王 「ナーガセーナ先生、それがしと再び討論いたしましょう」
ナーガセーナ 「大王どの、もしもあなたが学者のように討論されるなら結構ですが、王様のように討論されるならお断りです。」
王 「ナーガセーナ先生、学者はどのように討論なさるのですか」
ナーガセーナ 「大王どの、実に学者たちが討論するときは、問題が紛糾したり、解明されたりします。議論が批判されたり、修正されたりします。対論者の相互に信頼関係があります。そして、学者は討論によって腹を立てることはありません。大王どの、学者は実にこのように討論いたします」
王 「先生、王はどのように討論するのですか」
ナーガセーナ 「大王どの、実に王様が討論なさるときは、一つのことだけを主張され、それに異議を唱えるものには、この者に罰を与えよと言って、処罰を命ぜられます。大王どの、王様は実にはこのように討論なさいます」
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