2. ブッダの思想に関する資料

 現在多く残されている仏典のうち、初期の仏教(原始仏教)の思想をもっともよく伝える文献は、パーリ語で書かれた聖典である。1) パーリ聖典は南方上座部が伝えたもので、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジアなどの諸国に広まっている。パーリ聖典のうちで経蔵といわれる部分は、ブッダの教説(アーガマ、阿含、信ずるべき人のことば)として伝承された聖典群で、その中には極めて成立が古いものも含まれていると推定される。

 パーリ聖典は、最初期の仏教の思想を伝えるとはいえ、後に発展し整備された思想を多く含んでいるので、そこに説かれるものをすべてブッダの教説とみなすことはできない。経典の編纂は、ブッダの入滅後、その教えを保持するため、弟子たちによってまず詩の形にまとめられたことに始まり、散文の部分は、それからかなり時代を経てから伝承にもとづいて加えられたと考えられている。パーリ聖典が現形のように集成されたのは、マウリヤ王朝時代(c.317-180B.C.)よりはるか後になってからのことであるとされる。2) したがって、ブッダの思想を解明する資料として利用するには、成立年代に関する注意が欠かせない。

 ここでは、まずはじめに経典中最古のものとされる『スッタニパータ』(以下Sn.と略す)第 4, 5章の思想を紹介する。そこにはブッダによって直接説かれたものも含まれていると推定されている。次いで、より遅く成立したと推定される散文の経典にみられる原始仏教の体系化された教理を概説する。


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1)  一部派の経典が完全な形で現在まで伝わっているのは、南方上座部のパーリ聖典だけである。パーリ語は、数多くあるプラークリット(俗語化したサンスクリット)のうちでも古い層に属する言語で、伝説ではブッダが用いたことばとされるが、現在では支持されていない。ブッダが用いたのは、その活動した地域から推定して、古マガダ語あるいはインド東部語と考えられている。パーリ語は、アショーカ王碑文との比較や南方上座部が元来ウッジェーニー地方で栄えたことから、インド西北部で用いられていた言語であろうと推定されている。水野弘元『パーリ語文法』山喜房書林、1955年、p.1以下参照。

 南方上座部以外にも、有部・化地部・法蔵部・大衆部・飲光部・経量部などが独自の聖典をもっていたと伝えられる。その一部は、サンスクリット訳、プラークリット訳、チベット訳、漢訳として残っている。

 パーリ聖典の経蔵は、1.長部、2.中部、3.相応部、4.増支部、5.小部の「五部」(ニカーヤ)に分けられている。
 漢訳の阿含は、1.長阿含、2.中阿含、3.雑阿含、4.増一阿含の「四阿含」に分けられるが、ほぼパーリ経蔵の五部に対応している。 ただし、これら「四阿含」は、単一の部派による聖典ではなく、長阿含は法蔵部、中阿含と雑阿含は有部というように異なる部派の聖典の寄せ集めからなっている。
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2) 中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫 1984年)「解説」 p.434に仏典の成立史が手際よくまとめられている。これによると、仏典のの形成過程は次のとおりである。

1.仏滅後、弟子たちは教えを簡潔にまとめ、暗誦しやすいように韻文で表現した。『スッタニパータ』(特に第4,5章)や『ダンマパダ』には最も古く成立したものが含まれる。

2.伝えられた韻文あるいは短い文句に対して説明が加えられた。この努力はアショーカ王以前から行われ、逐次継続された。一般に仏教経典中、散文の部分は韻文の部分よりかなり遅くつくられたと考えられている。しかし、そのうちに古い伝承を含んでいることは否定できない。

3.「仏説」として伝えられたものが集成編集され、「経蔵」が成立。戒律の集成説明書である「律蔵」も相並んで成立した。

4.マウリヤ王朝以後になると、仏教教団が細かな部派に分裂した。諸部派で経典の内容の説明・整理・註解を行い諸異説に対して統一的解釈を与えるようになった。これらが集められて「論蔵」を構成した。(以下略)

また、中村元『インド古代史』下、春秋社、昭和41年、p.333参照。

なお、『スッタニパータ』の第4章と5章の成立の古さについては、藤田宏達『ブッダの詩 I』(原始仏典 第7巻)講談社、1986年、「解説」 p.437 ――
「特に、前記『ニッデーサ』ですでに注解されている第4章と第5章は、その章名やその中の経や詩がパーリ・サンスクリット・漢訳・チベット訳の原始仏典の処々に言及・引用されており、成立史的に最古の聖典と見るのがほぼ定説となっている。むろん、その中にも、新古の層があるが(たとえば、第4章の第836詩や第5章の第976-1031詩には『ニッデーサ』に語句解釈がないから、後に加えられたものと推定される)、全体として極めて古いことは間違いない。」

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参考文献及びリンク:
http://world.std.com/~metta/canon/index.html
http://online.anu.edu.au/asianstudies/textnotes/buddhism.html