ひとりごと7 「アナログとディジタル」

20078.30 佐藤 憲史

 

 通信やコンピュータの世界では,ディジタル処理することが主流であり,アナログはどこかに追いやられた感がある.世間では,「私はアナログ人間で,パソコンなどのディジタル技術にはついていけない」というような発言も聞かれる.IT (Information Technology)など現代的な技術はディジタルで,人間的な世界はアナログだという考えもある.しかし,アナログとディジタルの違いは何か,現実は本当にアナログの世界か,ということを考える.

「ディジタルは01かキチンと割り切ってしまうが,現実は割り切れないものであり,私はアナログの方が好きだ」という意見も聞かれる.あいまいなものや微妙なニュアンスなど,そういうものをディジタルは排除してしまう冷たい世界ととらえられているのかもしれない.しかし,現実の世界は,パソコンなど現代文明を持ち出さなくともディジタルであふれている.そもそも話し言葉はディジタルである.お金もディジタルである.言葉もお金も有限個の要素で構成されたディジタルの世界である.自称アナログ人間という方も,毎日ディジタルの言葉を使っている.ドレミからなる楽譜に基づいた音楽もディジタルだ.お金も1円を最小単位とするディジタルであり,会社の売り上げ,給料などすべてディジタルである.昔からあるそろばんもディジタルである.スポーツは野球やサッカーなど,ほとんどディジタルの数値で争われる.格闘技ではどちらかがたおすかたおされるかであり,ディジタルの世界である.

「ディジタルはすべて01かにわける」というのは正しくない.それは,たまたま2進法を使っているということである.ディジタルの本質は,「量子化」にある.つまり,いろいろな情報を有限個の要素の組み合わせで表す.お金がいい例だ.例えば1時間働いて時給が800円というとき,いや800801円の中間より少し下だと言う人はいないだろう.ディジタルもある程度細やかに「量子化」すればあまり気にならなくなる.その細やかさ,つまり分解能が問題なのかもしれない.

お金や言葉などがディジタルだと言ったが,それらは人工的なものであり,自然はアナログだという意見があるかもしれない.しかし,自然は本当にアナログなのだろうか.人間はじめ生命体はDNAから構成されているが,その中にある遺伝子情報は塩基の組み合わせてできており,ディジタルである.そもそも,物質は原子というつぶの集合体であり,ディジタルである,というのは乱暴な議論だろうか.これに対して,電磁波などの波はアナログではないか,いやいや量子力学では電磁波も光子といって粒子のように扱える,という議論を持ち出すと半分煙に巻いた話になるので止めよう.「物質はディジタルでも精神はアナログだ」という意見もあろう.「いやいや,精神や心は脳の働きであり脳細胞の信号処理で説明できるはずだ.脳の信号処理もディジタルなのではないか」ともいえる.しかし,「そもそも心は,脳の信号処理などとは別物で神聖なものだ」,ということを信じておられる方を否定することはできない.

数値情報では,連続量がアナログで,整数のような離散的な量がディジタルである.0から1まででもその間に無限の数があるというのがアナログである.例えば,点を近づけて並べていき,無限の点の集合という理想化したものが曲線である.だが,連続した曲線は有限個の点集合の極限ではないか.つまり,アナログこそ理想化した人工的なもの,人間が考えた抽象的なものであり,ディジタルが本質なのではないか.ただ,現実はあまりにも多くの要素がからまりあっており複雑になっていると見ることもできる.

通信でアナログかディジタルかということがある.テレビ放送は2011年から完全にディジタル放送になる予定である.ディジタルカメラも普及している.このようなディジタル化は,情報を有限の要素に分解している.アナログ通信では,音声や映像などの元の情報を量子化などの処理をしないでそのまま電気信号に置き換えている.しかし,そのアナログ信号の良し悪しを決めているのは,信号対雑音比,SNRである.雑音として本質的なものに,熱雑音とショット雑音がある.信号は,電子の流れ,電流でできている.その粒子としての性質が熱雑音とショット雑音を引き起こしており,ディジタルで解析しなければ理解できない.つまり,アナログ信号もディジタルで特性が決められる.

このように考えると現実はディジタルであり,アナログは人間が考えた理想化されたもの,抽象的なものと言うことができる.アナログ計算機やアナログ測定器がある.昔は,X-Yレコーダでアナログ測定器から得られる出力をそのままプロットさせた.このようにして得られるデータはアナログである.「アナログは人間が考えた理想化されたもの,抽象的なもの」ではなく,自然に得られる現実なのではないか,と反論されそうである.ただ,ここで問題にしているのは,自然現象や人工的な装置から得られる現象を情報化するときのやり方である.「自然をあるがままに見る」というのは良いが,言葉や数値として情報化しなければ,何も見ていないことと同じである.情報化するときに,我々はディジタルに処理しているのではないか.

アナログは,数学的に理想化されたモデルを根拠にしているところがある.このようなアナログが,とても役立つものであることは言うまでもない.ただし,そのモデルを常に忘れないことが重要である.学生実験で,学生が実験レポートで書いてくる図について気になることがある.例えば,横軸が電圧で縦軸に何かしらの出力として,測定点がいくつかプロットされている.測定点は有限個のディジタルである.測定はアナログ装置を使う場合もある.例えば電流計のように,針のあるメータでデータが出る.それを,目で量子化してある値としている.多くの学生は,図中に,得られた数点のデータに合うようなそれらしい曲線を引いてくる.理論的に直線関係になることが予想される場合は,データ点に合うような直線を引いてくる.そこで,「この曲線は何ですか」と尋ねることになる.「最小二乗法によるもっともらしい直線を引いた」といわれればそうかと思うが,そのように答えられたことはまだない.測定点は有限個である.各点は実験的なばらつきや誤差を含んでいる.そこで,その近辺を通るもっともらしい曲線を引くことになるのだろう.そこで,「なんとなく合うような曲線を引くのは止めて,理論的に計算される曲線を引きなさい」と言うことにしている.理論的に計算される点は無限にあり,根拠のあるアナログ曲線を形成する.実験データと理論曲線を比較して何が言えるか考えなさいということになる.あまり根拠のないアナログ曲線を何気なく引いてしまうことは,科学的とはとても言えない.というのは,測定していない条件のデータを勝手に予想していることになる.また,測定点とアナログ曲線のずれを深く考えないで,大体こんなもので済ましてしまうことになるのである.

 

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