ひとりごと6     「ウェブの囲碁対局にはまる」

2007.7.4

 

囲碁は,一度溺れると止められないゲームである.私は,大学生のとき囲碁を覚えた.大学院では,とても強い助手や同じくらいのドクターがいて,よく碁盤を囲んだ.会社に入ってからは,いつしか,たまに打つ程度になった.沼津高専にきて囲碁仲間にめぐり合い,また,時々打つようになった.今年の連休に,小学生の息子がウェブでゲームをやっていたが,そこに囲碁の対局があった.無料サイトで,対局室をクリックすると現在進行中の対局リストが現れた.そこから選んで他人の対局を見ることができる.自分も対局したいときは,相手を探しているところにいくか,自分でテーブルを設定して相手の参加を待つことになる.これらのソフトは,Javaでできている.対局している碁盤とその石の配置がリアルタイムで現れる.ゲームを終了すると,地合いの計算をやってくれる.これらがインターネットを通してやれている.そのソフトは,どのようになっているのだろうか.碁のルールは簡単だが,石を取ったり取られたり,地合いがいくつかなど,どのように計算するのか.論理はわかるが,それをコンピュータにやらせるとなると私には想像もつかない.(ただし,ソフトも完全ではなく,たまに地合いの計算を間違える.また,上げハマ(とられている石)を指示してやる必要がある.)

それはともかく,囲碁の対局を試しにやってみると結構楽しめた.いや,病みつきになりかなりの時間を費やした.囲碁のソフトは,自宅のパソコンに付いてきたので持っていたが,まだまだ弱く,パソコンにかなりのハンデをやらないとゲームにならなかった.パソコンソフトでやる囲碁のゲームは,初心者にはいい練習になるかもしれないが,有段者が楽しむとまではいたらない.将棋やチェスのソフトはかなり強いと聞くが,囲碁はまだ発展途上だ.それだけ囲碁が深遠なのかもしれないし,コンピュータの弱点があるのかもしれない.しかし,インターネットの囲碁対局は別物だ.何しろ相手は人間である.相手と碁盤を囲んでやる場合は,始めに自分の棋力を申告し,お互いの差に見合ったハンデをつけてゲームをやるのが普通である.たとえば,2段と初段であれば,初段の下手が1目最初に置く.自分より優れたものに敬意を払うという意味で使われる「一目置く」という言葉は,囲碁からきたものである[1].では,お互いに5分のときはどうするか.その場合は,互戦(たがいせん)といって,先手後手を石を使った抽選で決める.後手は不利なので,コミをもらう.現代は,コミ6目半としている.それで半目勝負となる場合もある.目(め)とは,碁盤上の格子点であり,19 x 19 = 361目(もく)ある.それを黒石と白石で囲いあい,それぞれ獲得した地合いの目数で勝敗が決まる.先手は,6目半だけ有利というわけである.段級で表される棋力に応じてハンデをつけるときは,ある決められた目に石を置いてゲームを始めることになる.

囲碁のどこが面白いか,なかなか説明しにくい.あんな単純な構造の中に,思いがけないことがたくさん起こることが大きな魅力であることは間違いない.プロの武宮九段は宇宙流と呼ばれている.碁盤に宇宙を見るのである.理論的には石の打ち方は361!に近い組み合わせがあるので天文学的な数字になることは確かであり,宇宙があるといっても決して大げさではない.武宮九段の宇宙流はそれとはちょっと意味合いが異なるのであるが,ともかく碁盤を宇宙に見立てるのである.ゲーム中は,石が生きるとか死ぬとか,七転八倒の苦しみがある.勝ったときは満足感があるが,負けるとがっくりくる.一手のミスで逆転されたりする.相手の弱みを付き,相手の陣地を侵食する.自分の陣地と思っていたところが,相手の一撃で見る見るとられていく.まさしく,侵略戦争である.「殺し屋」と呼ばれたプロがいたが,囲碁では,殺しも正当なのである.サッカーも武器を持たない戦争と言われるが,ゲームは人間の闘争本能を満たしてくれるものといえる.ただ,その人に合ったゲームがあるのだろう.囲碁では,序盤は布石の段階で,戦略が必要だ.中盤では石が絡み合い,戦いになる.読みの勝負だ.こういけばこうなる,と頭で考えるのであるが,場合の数が多すぎて,とても読みきれない.そこでどんな手を選択するかに性格が出る.いくつかある中で最悪の手を選択していることがある.まさにマーヒィーの法則だ.私は,ついつい自分に都合よく考えて強気の手を打つ.相手が強いとそれを咎められ,痛い目にあう.相手が弱気の場合,私のうそ手が通用してうまくいったりする.時々,痛感するのは,碁盤を見ていても見えていないことがあるということだ.明らかに,危ないところなのに,自分の都合のみ考えて見えていない.逆に,弱気になって相手の弱点を見落としたりする.囲碁は最後に1目でも多ければ勝ちなのだが,とても欲ばったり,相手の陣地に嫉妬して無理な戦いを仕掛けたりする.このような戦いをすることは,何かしら役立つと思う.「見ていても見えていないこと」は,現実の生活や研究などでもよくあることだ.ともかく,よく考えるようになる.

ウェブでの対局は相手の顔が見えず,面白くないという人もいる.私もそう思っていた.ウェブの対局は,棋力を申告するものもあるが,たいていは互戦だ.棋力が違って,話にならないときもある.終わっても挨拶もないし,自分が不利になるとプイッと消えてしまう人もいる.

そもそも,パソコンなどのゲームを馬鹿にしていた.子供がゲームボーイやプレイステーションなどに夢中になるのは百害あって一利なしという考えだった.「ゲーム脳の恐怖」[2]という本があったが,それ見たことかと拍手喝采した.ゲーム自体は楽しい.学生のときは,よく徹マンと称して夜明けまでマージャンをやった.学生の頃,喫茶店にインベーダとかいうゲーム機がおかれ,その後,ファミコンなどが出てきたが,それほど楽しいとは思わなかった.機械相手にゲームして何が楽しいのか,と思っていた.人間相手にやれば,コミュニケーション能力が必要で,駆け引きや,時には,口でだましたりもする.そういうやりとりがゲーム機相手では全くない.また,ゲーム機やパソコンは,仕組まれたソフトで動いているだけである.パソコンも進化すれば,ゲームをやるたびに学習し,新しい手を考えてくるようになるかもしれないが.

しかし,対局ゲームは違うと実感した.先に述べたように,対戦での礼儀もない,対局して自分が不利になると投げ出す人もいる.でたらめな手を打つ人もいる.それも世間だ.どんな人か想像しながら打つのも楽しい.慎重な人,強気の人,さまざまだ.数手打つと自分より強い人かどうか,大体察しがつく.自分が打たれたことがないような手が出てしびれることもある.ただ,マウスでクリックミスしてとんでもない手になることがあるが,修正はきかない.待ったなしである.(囲碁には,「投了」というのがあって,途中で降参してよい.このボタンを押さずに試合放棄する人がいる.)ウェブの囲碁対局は,相手が見えないので,まったく遠慮なくできる,という良さもある.インターネットは,手軽に囲碁を楽しめるようにしてくれた.ただ,やりすぎに注意が必要だ.1週間でどれだけとか,決めてやらないと本当に溺れてしまう.

 

[1] 囲碁用語で,一般に使われるようになった言葉がいくつかある.「布石」,「定石」,「捨石」,「岡目八目」など.「駄目」(だめ)はもともと囲碁用語で,境界領域にできる地にならない目の意味である.

[2] 森 昭雄著,「ゲーム脳の恐怖」,NHK出版(新書)2002.ゲームに熱中する人の脳波がぼけ老人と同じだった,という,かなりショッキングな報告があり,話題になった.その後,脳学者から,一時的な脳波を見て中身が同じであるかのような誤解を与えている,という批判があった.ゲームで脳がおかしくなるというより,ゲームに溺れる,それしかやれなくなることが問題だ.特に学生は,勉強時間を失っているのではないか.

 

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