ひとりごと50  「先生と呼ばれて」

2018. 2. 28 佐藤 憲史

12年前の20064月に沼津高専の教員となった.ひとりごと5「高専の1年」でも書いたが,教員同士で「先生」と呼びあうことがいやで,私はほとんど「先生」を使わない.相手がどう呼ぼうと,会話では「‐‐さん」と呼び,メールでは「‐‐様」を使っている.それを12年間貫いてきた.ある程度社会でもまれた人間が,大学等の教員に転職して教員から「先生」と呼ばれることに違和感を覚えるのは,私ばかりではない.直接聞いたこともあるし,ブログなどで同様の意見が見られる.ある組織でお互いをどのように呼び合うかということは,その組織の人間関係を反映しており深い背景があるようだ.役人や会社の人間が関係する議員(政治家)を「先生」と呼ぶ.弁護士や司法書士も「先生」と呼ばれていた.医師を患者の立場で「先生」と呼ぶこともある.困った上司に対し,「先生にはかないませんね」という言い方もあった.「先生」といって近寄ってくる人があれば身構えた.「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳があるが,「先生」というのは何かと思惑を含んだ言葉である.それが学校に来てみると,教員同士で皆,「先生」と呼びあっている.そこに私は「甘えの構造」を見た.私は結婚して子供ができてから妻を子供と一緒に「お母さん」と呼ぶようになった.子供が成人してほとんど家にいなくなった今も「お母さん」である.子供のように甘えている.妻にとっては「あなたのママではない」のであり,実際そう叱られたこともある.矢作恒雄氏は,「先生」と呼びあうことで「専門領域不可侵」となり,批判や責任追及の姿勢が弱まり自浄機能の喪失につながっていることを指摘している(1).それも「甘えの構造」といえる.世の中で「先生」は何か権威のある相手を持ち上げる言葉であり,よろしく取り計らってもらおうということだ.教員同士の場合相手を「先生」と呼んで下手に出るが,自分をもそう呼べという傲慢さというかなれあいが潜んでいるように思える.

アメリカの大学を訪問したことがあるが,会うといきなり,“Hi, Kenji”である.日本の経験がある方は,”Sato san”と呼ぶ.彼らの文化ではファーストネームが当たり前のようだ.それも呼び捨てであるが,これを日本で真似したら締め出されるだろう.この習慣の違いはどこから来るのか.そういえば私の出身大学では,教授も学生も「‐‐さん」であった.ずっと年配の先輩に益川敏英さんがいるが,テレビで「先生」と呼ばれると怒っていた.東大では「根岸ルール」というのがあって,自分が教わった教師以外「先生」とは呼ばないそうだ.大学の一部かどうかわからないがアカデミックな所は「先生」とは呼び合わないようだ.ただし,ファーストネームではない.

会社では,「部長」とか「課長」と呼ぶ習慣があるが,「‐‐さん」と名前を呼ぶようにしているところもある.学校では,「教授」,「准教授」となるところだが,みんな一緒に「先生」と呼んでいるのだろう.校長が若手教員を「‐‐先生」と呼んでいる.「さん」と同じような敬称にすぎないのかもしれない.「先生」は便利である.名前を忘れても「先生」で通用する.私もある緊急の事態にとっさに名前が出てこなくて「先生」と叫んだことがある.教員同士で「先生はどうされるのですか」とか,会話でよく使われている.先生はYouの代わりになる.池田信夫氏のブログ(2)に書いてあったが,日本語には主語がないということだ.Youはあなたであり,日本語にも主語があるが,もともとなかったようで使いこなせていない.「あなたはどうされるのですか」とはいいにくい.何か上から目線のように感じられる.

人の呼び方の正式な形は,例えば「佐藤憲史教授」,英語では,”Professor Kenji Sato,”である.その省略形として日本では「先生」となり,アメリカでは”Kenji”となる.要は何を1番大事と考えるかだ.日本では教授という肩書が最も大事で,しかも細かい区別はなくみなさんご一緒に「先生」となる.アメリカ人にとってはファーストネームが1番大事なのである.そこに文化の違いを見る.日本語やその他多くの言語には主語がなかったが,インド=ヨーロッパ語には初めから主語があったそうだ.そうか,欧米は多民族国家で個人や自民族を主張しなければ生きていけなかった.デカルトの「コギト エルゴ スム」(われ思う ゆえにわれあり)に象徴されるように,西洋では徹底して自我の確立から出発した.そこに近代科学が生まれ民主主義が生まれた.これは社会学者のKさんが常に語っていたことだ.中国や日本は儒教の国だ.肩書やメンツが大事であり,ムラ社会,共同体で忠義と孝行,義理と人情を大事にしてくらしてきた.それはそれで美しいが,そこからは何年たっても近代科学や民主主義は生まれなかっただろう.その本質が言語にあり,主語があるかないかに現れている.

教員や学生がファーストネームで呼び合うようになれば,日本も個性を伸ばし独創性をはぐくむ教育ができるような気がする.逆に言えば,今のまま教員同士で「先生」と呼びあっているようでは,独創性も育たないということだ.

(1) 静岡新聞,2006523日朝刊9面,「時評」.

(2) http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301253.html

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