ひとりごと その5 「高専の1年」

20073.30 佐藤 憲史

 

 高専に勤務して1年になる.桜が咲き始めたが,桜を見ると1年前を思い出す.それまで会社勤めだったので,この1年間は初めての経験の連続だった.また,教職員や多くの学生など新しい知り合いがたくさんできた.私生活のことでもこれまでにない経験をした.これらは総じてとてもよい経験だった.縁があって接点を持った方々に感謝したい.

この1年間,「高専とはなんなのだ」と問い続けてきた.知って転職したのではないかといわれそうだが,外部にいてわかることは知れている.さかのぼって事情を説明すると,2005年の春ごろ,20063月で前の会社を辞めて転職しようと思っていた.しかし,2005年の夏には,行き先は決まっていなかった.大学の公募にも出した.後で聞くといろいろあったようだが,結局,決まらなかった.他の企業やベンチャー企業も考えたが,就職活動はできなかった.こちらから売り込めるものがあまりなかった.いろいろエントリーしたが,沼津高専の公募でなんとか拾ってもらったというのが正直なところだ.それが決まったのが2005年の暮れである.そして2006331日まで会社に勤務して,切れ目なく今の職へと就いた.年休がたくさん余っていたので2ヵ月ぐらい休めたが,そんな余裕は全くなかった.

高専にきてみると,「高専とはなんなのだ」という思いにいたった.大げさに言えば,「教育とは何か」といっても良い.私の転職を知ったある知人から,「佐藤さんは教えるのが好きなんですね」といわれた.1年間教育に携わって,教えることが好きになったとはとてもいえない.以前の会社では研究職だったので,論文を発表したりいろいろ議論することは好きで,それなりに活動した.自分で研究したり考えたことを話すのは楽しい.しかし,授業は論文発表とは大いに異なる.沼津高専では,45年生の授業はほとんど90分である.90分間学生が一心不乱に聞くような授業をやるというのは,神業に近いと思う.授業中ほとんど寝ているが,それでも成績がトップクラスという学生もいる.私はそれも結構で,授業に出たくなければ出なくとも良い,テストである点取れば良い,という考えである.ただし,授業中にほかの事をやられるのには閉口する.特になにやら話しあっているのは耳障りだ.大学の非常勤講師をしたことがあったが,授業中におしゃべりはほとんどなかった.どうも大学生とは違うなということにすぐ気付いた.こちらの問題意識で興味のあることを論じても,興奮しているのは自分だけということに時々なる.学生の到達点とそのばらつきがわかっていない.自分にとってあたりまえのことを教えるのは,結構忍耐が要る.ただし,当たり前のこともよくよく考えると良くわかっていなくて新たな発見をすることもある.授業をやりながら疑問がわいて,それを考えながらしゃべったりする.「そんな授業,聞いていられない,ほかの事をやって何が悪い」といわれそうだ.授業の準備をしっかりやればよいのだが,学会の招待講演のようには意気が上がらない.しかし,これで給料をもらっているのでそこそこ努力はしている.年度末の授業終了時にアンケートで学生による授業評価を受けた.アンケートの中に,授業に満足できたか聞く問いがあり,その結果から勝手に決めた式で数値を求めた.6割以上合格とすれば3.4以上合格で,結果は34の間で合格!これはベテランの教員に比して遜色ない結果だった.私のような教員1年生が,これで喜んで良いのかわからないが.学生の指摘では,黒板の文字・内容に関するものが多かった.これは何とかしたいと思う.

20064月,着任してまもなく,新任教員の歓迎会があった.私は,「私を先生と呼ばないでください.私は皆さんの先生ではありません」と挨拶した.そういった手前,私は他の教員を先生とは呼んでいない.しかし,他の教員は私を先生と呼ぶ.そこで余計変なことになる.「先生」とは便利な言葉で,名前を忘れてもそれで通じる.つい私も「先生」といってしまいそうになる.しかし,言わない.「先生」と言われる響きがどうも嫌いだ.先生と呼ばれるほど利口(馬鹿?)ではない,といいたくなる.学生が先生と言ってくるのはしょうがない.しかし,調子のいい学生に限って先生を連発しているような気がする.ともかく私は,先生と呼ぶのは恩師だけにしようと思う.ただし,先生を連発する方は,誰でも師だ,という謙虚な気持ちなのかもしれないし,それをとやかくはいえない.「私を先生と呼ばないでください」と言う私のお願いは,どこかにうもれてしまった.新任教員の歓迎会で私がそういうことを発言してしばらく後,Wさんが新聞の切り抜き記事をもってきてくれた.ある大学教授が,「一度お互いに先生と呼び合うのを止めてみませんか」と言っている記事である(静岡新聞,平成18523日朝刊9面).その教授の言いたいことは,先生と呼び合う弊害として,専門領域不可侵をたてに責任追及やまともな批判ができなくなる,ということであった.それも然りと思った.

最近,Kさんから「他人を見下す若者たち」(速水敏彦著,講談社現代新書)と言う本をもらって読んだ.速水教授は,「現代人の多くが他者を見下したり軽視することで,無意識的に自分の価値や能力に対する評価を保持したり,高めようとしているように思われる」と述べている.これはなかなか示唆に富む内容だ.現代は,博士でも,総理大臣でも絶対的な権威のある存在はなくなり,我々は時に彼らを平気で見下す.そのような方でも,これは極端な例だがスカートを手鏡で覗く教授など,ミスをするから馬鹿にされる.我々は,他人のミスには厳しく接する.堀江さんも時代の寵児のように扱われたかと思えば,一転犯罪者として扱われている.世間の目は厳しい.時々,学生も「先生」を見下している.これらは,対等に批判することに慣れていないことの現われとも考えられる.ともかく,「先生」と呼び合っているときではないだろうと思う.

 

 

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