ひとりごと48  「死について」

2017. 8. 7 佐藤 憲史

死は突然やってくる.私の両親は80を過ぎて病気がちとなり,時期は異なるが入退院を繰り返していた.医者からはいつ亡くなってもといわれ覚悟していたが,それは突然やってきた.父親が先に亡くなった.その時は自分にも死がやってくることを実感した.物心ついたころ親類縁者の死を何度か経験したが,その頃は自分の死を信じられなかった.死というものが理解できなかった.自分が大きくなる頃には不死の薬が発明されるだろう,などと考えていたことを覚えている.

生物に限らずいろいろなものに寿命があることを経験的に知った.太陽の寿命はおよそ50億年といわれている.地球と地上の生命の寿命はそれよりも短いだろう.我々はトランジスタなどの電子デバイスが故障したとき,「―が死んだ」という.所望の機能を発現できない状況になっており,取り替えるより仕方ないとき「死んだ」と判断する.パソコンもたまに死ぬ.ハードディスクの寿命が原因という場合が多い.ハードディスクを取り替えれば生き返るが,それまでのメモリはリセットされる.メモリのバックアップをとっておき,それを新しいパソコンに入れれば蘇る.パソコンはハードとソフトを分離できるので,ソフトを常にバックアップしておけば永遠の生命を持つともいえる.人間が作ったものは同じ部品があれば交換でき,修理してまた使える.ソフトに至っては全く同じものを複製できる.生物の場合は働かなくなった部位を簡単に交換できない.ましてや脳やその内部を取り替えることはできない.iPS細胞などの進歩で,ほとんどの部位の交換が可能になれば,寿命は遙かに伸びるだろう.問題は脳の修復である.パソコンと同じように,壊れたところを新しくすれば再び働くようになるだろう.しかし,メモリがりセットされれば別人になってしまう.であれば脳の中身を情報として取り出し,別の人間に移すことは倫理上問題なので,ロボットにその人の情報を移せば永遠の生命を得られるかもしれない.人間をはじめ生物は子孫を残すことで自らのコピーを作製し,生命を存続している.個体の生死を繰り返しながら生物の存続が成り立っている.個体の生死がなぜ必然か.生物が行うコピーはパソコンなどが行うこととは異なって,全く同じものの再生産ではない.変異もあれば進化もある.ソフトとハードの分離も生物では困難である.生物活動を含む自然現象は不可逆過程である.生物は生まれて成長し死へ至るが,その逆は起こらない.死はカオス現象であり予測不可能であるが,寿命はある.では寿命は何で決まるか.

三木清は「人生論ノート」で,「死は観念である」と述べている.死生観が思想や宗教を生んでいる.東洋では,死を「土に還る」と表現し,「死生一条」という思想がある.西洋ではキリスト教はじめ,絶対神のもとへ還るという思想である.要は死後の世界をどうとらえるかである.私にとって「天国と地獄」,「死んだら星になる」などというのは,空想や感傷でしかない.そう言ってしまえば野暮になるが,いつの頃から,私は死後の世界を否定できるようになった.死んだら何もない,空である.眠って意識のない状態を毎夜経験している.それが永遠に続くだけである.自分がいなくなっても,この世界は生きているもので続くと考える.このような当たり前の考えは,しかし,少数派であろう.世界では宗教を持つ人口が多く,大抵の宗教は死後の世界を教示している.日本の仏教もしかりだ.

「亡くなった方が天国で見ていてくれる」ということを聞くが,死んでからもこの世を眺めて心配していたら病気になりそうである.まあ,とっくに死んでいるので病気は関係ないが,死んでからもあれこれ思い煩うのはごめんである.「あの世で会おう」というのもうっとうしい.会いたい人ばかりではない.「あの世に行くとまた主人に会わなければいけないので絶対死にたくない」というおばさんがいたが,天国はいいことばかりではないだろう.脳が停止すれば意識もなくなるのであり,霊などはない.あるのは生きている人間の思いである.「英霊として祀られる」というのは幻想の政治利用だ.原始仏教では死後の世界は語られておらず,「修行者は,この世とかの世とをともに捨て去る」と述べられている(中村元訳,「ブッタのことば ―スッタニパータ―」).「死は永眠でありそれ以外何もない」ことと「この世は自分が死んでも続く」ことを理解できれば,生きていることの意味が少しはっきりしてくる.生きていることがすべてであり,意識を持って生きていることの奇跡を感じる.

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