ひとりごと16 「『学力低下は錯覚である』を読む」

2009. 3. 25  佐藤 憲史

 

 神永正博著,「学力低下は錯覚である」(森北出版,20086月)を読んだ.かなり刺激的なタイトルであるが,内容は極めて実証的であり,興味深い論点が多々あった.大学教員の実感として「学力低下」を取り上げており,この頃の学生の学力,例えば数学の計算能力が低下したことなど,高専でもよく耳にする話題である.本書は,そのこと自体を否定しているわけではない.大学生の学力が低下して見えるのは,進学率の上昇により,「以前は大学に進学できなかった層が大量に大学生になったことにより---(中略)---『大学生集団』の学力水準は下がったようにみえる---(中略)---『恐るべき学力の低下』の大部分は,おそらく統計的な錯覚である.」というのが著者の主張である.同年代の学力の分布が昔と変わらないとしても,大学定員が増加し,進学率が上昇すれば大学生の学力水準が平均として低下するのは当然である.日本人がだんだん馬鹿になっているわけではない,ということである.大学などの高等教育機関の性質が変化したのであり,それを理解しないで単に学力低下を嘆いても仕方ない.1960年代には大学進学率は10%台であったのが,2005年には44%になっている.学力が正規分布しているとすれば,1960年代には偏差値60程度以上ないと大学にはいけなかったのが,現在では50程度でもいけることになる.ただし,学力の絶対値がどのように変化しているかの明確なデータはないようだ.学習する内容も変化しているし,そもそもどのように学力を評価するかという問題がある.しかし,本をあまり読まなくなった,ゲームをやるようになったなど,いろいろ変化はある.昔,電卓はなくそろばんを使っていたので暗算能力は高かったようだ.私は,高専で電卓を使わせないで試験をやるが,学生は筆算で苦労するようで,とんでもない数値を出してくる学生がいる.時代とともに退化する能力があって良いのだが,入門時にはなるべく手を使って書かせるようにしたいと考えている.

 本書には,理工系離れについての考察も述べられている.大学志願者の変化から,「理系離れとよばれる現象は,正確には,工科系離れである」ことが指摘されている.理学部や医科系への志願者は増加しているが,工学部への志願者が激減している.現在,大学進学を希望する高校生にもっとも人気のあるのは経済学部だといわれている.1960-70年代の高度成長時代と現代では,日本の経済構造が大きく変化し,製造業からサービス業への転換があった.トフラーの「第三の波」が出版されたのは1980年である.簡単には,農耕牧畜(第1次産業)が中心の第1の波,産業革命後の工業(第2次産業)中心の第2の波,そして現代が,サービス業など(第3次産業)を中心とする第3の波である.高度成長時代に教育を受けた我々の世代には,成績が良ければ工学部へといった文系より理系へという志向があった.文系に魅力を感じつつ就職が良いとか将来性があるとかの理由で工学部に進んだ学生は少なからずいた.例えば,工学部を出て就職し,その後,経済系の大学院に入り,経済学関連の教授をしている友人がいる.理系離れというが,工学部への集中から元に戻りつつあるのであり,高度成長時代の工学部人気が異常だったという見方もできる.

本書では,「本物の理工系人間は不滅である」ことが述べられている.力学や電磁気など工学部や理学部で教わる学問の基礎は,ヨーロッパが発祥である.数学や物理など体系だてて学問にしたのはヨーロッパ人である.日本には,ものづくりなどの技能や和算などはあったが,西洋の科学には到底及ばなかった.明治以降,ヨーロッパの文明を吸収し,20世紀末には世界有数の経済大国になった.ノーベル賞を受賞するような科学者も現れた.しかし,それは限られたほんの一握りの人たちである.西洋音楽の世界で活躍する日本人もいるが,ほんの一握りの人たちであるように.もともと日本には,「本物の理工系人間」は少ないのかもしれない.私は,「本物の理工系人間」と接し,大きな成果を上げる事実を目撃してきた.そのような経験からみて,私自身は「怪しげな理工系人間」であり,さしたる成果をあげていない.ただし,ある程度の科学的知識を習得し,研究もやったのでその経験で教員を務めている.問題は今,科学を,研究を,しているかだな,と思いつつ,日々が過ぎていくこの頃である.

 

 

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