ひとりごと15 「ゴミが処理できない」

2009. 3. 24  佐藤 憲史

 

 手を使って食べ物を口に運ぶ猿でも,ゴミの処理はしないだろう.自然界ではゴミという存在はない.バナナの皮など食べ物の残り殻は,そのまま捨てれば,他の小動物のえさになり,いつかは土にかえる.川を遡上する鮭をクマが食べる.その食べ残しが森の栄養になっているそうだ.ゴミというのはいたって人間的な産物である.人間であれば,小さい時から,ちゃんとゴミを捨てるようにしつけられる.ところが,20歳前後になってもゴミ処理ができない者がいる.ホームで電車がやってきたとき,ドアが開いて若者が出てきて空き缶をぽいっとホームにおき,また電車に乗る光景を見たことがある.その若者は,電車に戻り仲間と大笑いしていた.空き缶をゴミ箱に捨てたわけではなく,人が通る黄色いラインがあるところに置いたのである.捨てられた空き缶やペットボトルは,駅周辺,公園や道路でよく見かける.これらはゴミの処理ができない者たちの仕業である.動物は自然の摂理の中で生きており,ゴミなどということは気にしないでよいのだが,同じような生態の人間がいる.公園で幼稚園児か小学校低学年の子供数人が,一緒にお菓子などを食べていた.お菓子の包み紙など,ゴミを周りに散らかし放題であった.これを見て動物と変わらないと感じた.人間は,教育されなければゴミという認識はもたないし,ゴミを処理しないのである.そのような教育を受けないで大きくなった者がいるということだろう.高専も例外ではない.難しい微積分など勉強する前に,机の下のペットボトルを捨ててもらいたいと思うときがある.自分で飲んだペットボトルを教室のロッカーの上などにぽいっとおいてそのままで平気な学生がいる.ある学生の机の上や下には,よくペットボトルや空き缶が転がっている.我々が子供の時は,ペットボトルはなかった.缶入りジュースは高価でめったに飲ませてもらえなかった.のどが渇いたら水道水を飲んでいた.今の学生はペットボトルや缶入り飲料を大量に消費するので,教室のゴミ箱はペットボトルであふれかえる.教室の床には,ペットボトルやティシュペーパー,紙くずなどが散乱している.多くのものはゴミをちゃんとゴミ箱に捨てているが,落ちているゴミを拾うことまでやる学生はあまり見かけない.掃除の時間がくれば掃除はするが,それもさぼる者がいる.ゴミを散らかす学生は,小さい時からものを豊富に与えられ,そこから出てくるゴミを親が処理して,自分で処理することをしつけられなかったということだろう.

 人間は大量にゴミを出す.その処理に自治体は莫大な資金を費やしている.大量生産,大量消費の社会の矛盾がゴミ問題に現われている.ペットボトルなど買わないで水筒を持参すれば,ゴミを減らせる.また,自分に合った飲み物を用意できる.売られている飲料は,自然水以外は何が入っているかわからない.特に,甘い飲料水は砂糖過多で病人予備軍を育成しているのかと思ってしまう.

 ちょっと教育を受けたものなら,ゴミを平気でその辺に捨てることはできない.そのような行為は,恥ずべきものという自覚がある.これもいたって人間的である.このような自覚をあまり持たない人間をどのように教育したらよいのか.動物にはゴミという存在はないのであり,幼稚園からやり直すしかないのかもしれないと時々思う.

 

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