2. 『リグ・ヴェーダ本集』

 ヴェーダのうちもっとも古く重要なものが『リグ・ヴェーダ本集』である。1)これはヴェーダの祭式において、神々を祭場に招き称賛する賛歌の集成であるが、神々の姿、あり方を映し出した神話を伝え、またわずかではあるが哲学的な内容も含んでいる。

 その神話は、ギリシア神話と同じく、多くの神々が現れる。しかし、ゼウスのような最上神は存在せず、交互に最上の賛辞を受ける。ゼウスと起源を同じくする天神ディアウス(Dyaus)が現われるが、神々の主というわけではなく、多くの神々の中の一人でしかない。2)

 それら神々は、超越的な存在というよりは人間的で、多くは自然現象に起源を持つ。たとえば、火(アグニ)や風(ヴァーユ)はそのまま神として崇敬の対象とされた。とはいえ、火や風のうちにある畏敬させるなにものかが崇拝されたのであって、火や風そのものが崇拝されたのではないことには注意を要する。3) その他、太陽神スーリヤ、暁の女神ウシャス、雨の神パルジャニヤ、暴風神ルドラ、河の女神サラスヴァティー、夜の女神ラートリーなど自然現象が神格化された神々が多く現れる。

 しかし、ヴェーダの神話は単純に自然崇拝とはいいきれない面も持っている。とりわけ活躍する神にその傾向が見られる。リグ・ヴェーダの中で、鮮明に擬人化され、最も活躍する神インドラは、雷の性格を強くもつものの、敵と戦い、悪魔を退治する英雄神としての姿は自然現象とのつながりが希薄である。4)

 また、宇宙の理法(リタ、天則)の守護者であり、かつ懲罰者であるヴァルナ(Varuṇa)も自然現象との関係が希薄で、その起源は不明になっている。5) 古代ペルシアのゾロアスター教のアフラ・マヅダ(Ahura Mazdah)と元来は同一の神とされるが、6) ギリシア神話のウーラノス(Uranos)と同じ起源をもち蒼空の神格化されたものであるとする説、月の神と見る説、水の神と見る説など解釈は分かれている。このヴァルナもインドラと並んでヴェーダの神話において重要な役割を果たしている。

 神々は人間の願望を実現する力を備えた存在と見なされた。祭式は、そのような神々に供物を捧げ、賛歌を唱え、神々の好意を得ることによって、その力を発揮してもらい、願望が成就されることを願って行われた。祭火は供物を天上の神々に届ける使者として神聖視され、火神アグニとして尊ばれた。


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1) 辻直四郎『リグ・ヴェーダ讃歌』岩波文庫、1970年

2) 辻直四郎『インド文明の曙 』岩波新書、1967年、p.39.

3) 自然と超自然、物質と精神などを截然と区分する近代以降の認識形式にしたがって、古代の思想を解釈することは危険である。自然なものと超自然なものを明確に区分しない傾向は、宗教が日常生活のさまざまな場面において影響力を保っている現代インドにおいて、なおも顕著に認めることができる。

4) 西洋や日本の研究者には、敵を滅ぼす英雄神インドラの姿に、インドへ侵略するアーリア人の投影をみようとする傾向が強い。しかし、これはあくまで一つの解釈である。インドの学者は、テキストの当該箇所を「敵」や「悪魔」ではなく「黒雲」と解釈する。いずれにせよ、宗教文献である『リグ・ヴェーダ』から歴史を読みとることは慎重になされるべきであろう。ヴェーダの歴史資料としての価値は旧約聖書と比べても小さい。コーサンビー『インド古代史』岩波書店、昭和41年、p.113.

5) ヴァルナ(varuṇa)は、カナで表記すると「色」の意味で種姓制度の原語にも用いられるヴァルナ(varṇa)と同じになるので注意。この二つの語は、それぞれ異なる語根、前者はvṛ「選ぶ、覆う」、後者はvarṇ「色づける」から派生している。

6) A. B. Keith, Indian Mythology, Boston, 1917 (rpt. New Delhi, 1990) p.24.

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参考文献及びリンク: http://www.san.beck.org/EC7-Vedas.html