2. 『バガヴァッド・ギーター』(Bhagavadgītā 以下、ギーターと略す。) 


 書名は、教えを説くクリシュナが「バガヴァット」(幸あるもの、神)と呼ばれたことにもとづくもので、「ギーター」は「歌」の意。直訳すれば、「幸あるもの(神)の歌」である。

 全18章700詩節からなる小編で、『マハーバーラタ』第6巻の第25-42章を構成しているが、単独の書として広く読まれている。現代インドでも尊重され、イギリスからの独立運動で活躍したガンディーの思想を支えたことでも有名である。インドだけでなく、西欧でも広く読まれている。


 “ここにヒンドゥー教が始まった”とされる重要な聖典であり、今日のインドの社会が、生活の隅々まで宗教心に溢れるものとなっていることとも深く関わっている。

 また、ヒンドゥー教の「包容主義」の源でもある。1)

 ウパニシャッドのブラフマンの思想、サーンキヤの二元論、バーガヴァタ派の一神教など、インド思想のさまざまな要素を微妙な論理の筋で縫いあわせて奥行きの深い宗教思想を生みだしており、しばしばヒンドゥー教最高の聖典と称えられる。



(1) 場面設定

 パーンダヴァとカウラヴァの両軍がクルクシェートラに集結して、まさにこれからマハーバーラタ戦争が始まろうというとき、パーンダヴァの勇者アルジュナは、敵陣に並ぶ、子供の頃から親しくしてきた親族、知人を見て、突然、戦うことはできないといい始める。

 アルジュナの戦車の御者クリシュナ(実は、神の化身)は、アルジュナに戦うべきことをさまざまな観点から説き、ついには自らの真の姿をも明らかにして、人が深い信仰(bhakti 信愛)をささげれば、それに応えて救済する神であることを説き明かす。



(2) 成立した時代の宗教事情

 この場面設定は、ギーターを生み出だした当時のインドの宗教事情を反映している。2)

 仏教の興隆期、その教えにしたがって出家し、実社会から離れて修行の道に進む若者たちが大勢出た。アルジュナは、そのような若者たちの姿を反映している。

 ギーターは、こうして衰退の危機を迎えたバラモン教が、自分たちの拠って立つ身分制社会を温存しようとする立場から説かれている。クリシュナは、「四カースト制度は、私が作った。」(4.13)という。ギーター全篇が若者たちに出家を思いとどまらせ、実社会にとどまって、それぞれの階級に定められた各自の社会的・宗教的義務(svadharma)を果たすよう説得することを目的としている。(2.31、33、3.35、18.47; 以下、文中カッコ内の数字はギーターの「章 .詩節番号」を表す。)


 ただし、その立場は、ヴェーダを天啓聖典として尊重する正統バラモンの立場ではない。クリシュナは、「愚者たちは、ヴェーダを喜ぶ」(2.42)、「すべてのヴェーダは無用である。」(2.46)とヴェーダの価値を否定する。クリシュナの思想の担い手となったのは、おそらく、カースト制度の恩恵が得られた比較的富裕な人々の中で、仏教の支持基盤と似てはいるが、階級の平等を説くような急進性は嫌った保守的な階層であろう。


(3) 成立年代

 このような状況が生まれたのは、紀元前2世紀末のマウルヤ朝の滅亡の頃と考えられる。マウルヤ朝時代、王朝の支援によって仏教が栄え、出家修行者が尊敬される風潮が強まり、バラモン教は勢力挽回を図らざるを得ない窮地に追い込まれた。その王朝が倒れ、次のシュンガ朝では、バラモンが支配権を取り戻した。おそらく、こうした時期に作られ始めたものであろう。

 ただし、ギーターの現在のテキストは、古典サンスクリット語で整えられており、紀元後2世紀以降の成立とされる。ガルベ(Richard Garbe)の年代論、すなわち「原初のギーターが紀元前2世紀、現在の形のギーターが紀元後2世紀」という説が概ね支持できる。3)



(4) 作者の制作姿勢

  ギーターは、主として仏教に対抗しうるバラモン思想を生み出そうという動機によって作られているが、作者は諸思想への広い目配りと深い理解を示し、特定の思想に対して決してあからさまな批判はしない。感情を巧みにコントロールして、棘のあることばは避け、極めて巧緻な作品に仕上げている。

 たとえば、ブッダの悟りの象徴である「菩提樹(aśvattha)を斧で断て」(15.3)という、見方によっては過激な批判とも受けとれる表現が出てくる。この菩提樹は、シャンカラやラーマーヌジャの注釈によれば、「輪廻の世界」の比喩で、4) 必ずしも仏教批判を意味しない。その上で、一方では、クリシュナ自身に「私は木の中の菩提樹である」(10.26)といわせている。


 また、16.8「世の中には真実がない。根底がない。神はいない。因果関係にしたがって生まれるものがない。愛欲によって生まれるものでしかない、と彼らはいう。」という詩句のように、批判の対象は、曖昧で特定しにくい。5) あからさまな批判を避けるところに、ギーターの表現の仕方の特徴があり、それ故に、多くの人に受け容れられたといえる。


 ギーターの説明方法の大きな特徴は、旧来の語に新しい意味を盛りこみ、「語の意味をずらしていく」点にある。これは、ギーターが知識人のための読みものではなく、大衆に語り、聞かせるものとして生み出されたことと深く関わる。聞き手の知識の中にあることばにあくまでも寄り添って、新しい思想を紡ぎだすという方法がとられ、新奇な表現によって聞き手を惑わすことは、極力避けている。


 「語の意味をずらしていく」例として、まず挙げられるのは、カルマ説で、当時、仏教などによって説かれていた「行為すれば、必ず結果が生まれ、それが人を束縛する」という解釈を、「行為の結果にこだわることをやめ、いつも満足して、自立している人は、たとえ行為しても何も行為していない。」(4.20)と読み替える。これが「カルマ・ヨーガ」の思想の核になる。

 また、saṃnyāsaという語は、その派生語saṃnyāsinが「(地位、身分、家族、財産を捨てた)世捨て人」を意味するように、普通「捨てること」を意味するが、ギーターでは、自分の行う行為を「(神に)捨てて、まかせること」、すなわち、「(神に)ゆだねること」と読み替えられ、これが「バクティ・ヨーガ」を支える重要な概念になる。

 この外にも、ヨーガなど、語の意味がずらされて、ギーター独特の用い方をされる語がいくつかある。


(5) 思想の概要

@ ヨ−ガ


 クリシュナの教えは、「もし、お前の知性がヴェーダを離れ、瞑想(samādhi)において確立し、不動のものとなれば、そのとき、お前は、ヨーガに到達する」(2.53)といわれるように、「ヨーガ」を目的としており、様々な教えがどれも「ヨーガ」の名で呼ばれる。この語には重要な意味が込められているようなので、検討しておこう。

 インドにおけるヨーガの歴史は、きわめて古く、すでにインダス文明の印象の中にヨーガの座法と推定されるものが含まれる。『カタ・ウパニシャッド』2.6.10,11にも、心を統一する方法として説かれるが、一躍脚光を浴びることになったのは、ブッダがヨーガ(瞑想)によって解脱をえたことによる。その後成立した仏教教団は、構成員を出家修行者と在家信者に分け、ヨーガ(瞑想)は、もっぱら前者の修行の重要な核になった。このような文脈において、「ヨーガ」は、「静かなところで心の統一を目指して瞑想すること」を意味する。

 しかし、ギーターの場合、行動を重視する立場から、まったく別の意味が与えられた。すなわち、出家と在家の間を隔てる壁を打ち壊して、日常のさまざまな行為をすべて「ヨーガ」として行うことができることを示したのである。たとえば、「カルマ・ヨーガ」の場合、行為するとき、その結果にあくまで無関心を貫き、自分の義務を果たすことだけに「心をつなぎとめて行為に専心すること」によって、ヨーガが実行される。

 こうして、ギーターは、出家者にしかできないと考えられてきた「ヨーガ」を、誰でも日常のあらゆる行為について行えることを示した。いいかえれば、日常の行住坐臥、どんな行為も、何かに「心をつなぎとめて行うことによって」、神にささげる宗教行為として行いうる可能性を開いたのである。ここにギーターの「ヨーガの思想」のもっとも重要な意味がある。 6)



A カルマ・ヨーガ (行為のヨーガ)

  物語の冒頭、「戦いたくない」というアルジュナの心を支配しているのは、仏教などによって当時のインドに広められたカルマ説である。そのカルマ説によれば、どんな行為も、必ず結果を結び、それが人を縛る(18.3)。


  これに対して、クリシュナは「カルマの新解釈」(カルマ・ヨーガ)を打ち出して、アルジュナを翻意させようとする。

 すなわち、人を縛るのは、行為の結果ではなく、その結果への欲望・関心であり、(3.4、37)、それ故に、結果への無関心に「心をつなぎとめて」行われる行為は、人を縛らない。(3.18、4.14、20、21、6.1、4、18.2以下)

 「行為の結果がどうなるかを考えて行為してはならない。すべてを平等に見て、ひたすら武人(クシャトリヤ)としての自分の義務を果たすように努めよ。」(2.47以下)と説く。

 そして、人はからだをもつ限り、まったく行為しないで生きることはできないから、世に広まっているカルマ説は不可能だと批判する。(3.5、3.8、18.5、11) 「一瞬でも、行為しないでいられる人はいない。誰もが根源物質の要素によって、いやおうなく、行為させられているから。」(3.8)


B ジュニャーナ・ヨーガ (知識のヨーガ)

 カルマ・ヨーガを根底でささえる知識として、「ジュニャーナ・ヨーガ」が説かれる。その知識は、具体的にはサーンキヤ思想をさす。

 「サーンキヤsāṃkhya」は、「数」を意味する「サンキヤーsaṃkhyā」の派生語で、数えることが「考察」につながり、さらに「熟考」「智慧」を意味するに至って、思想の名として用いられるようになったものである。7) したがって、「ジュニャーナ・ヨーガ」とは、「サーンキヤ思想による世界理解・知識に心をつなぎとめて行為に専心すること」である。


 サーンキヤ思想は、二元論で、精神原理プルシャ(純粋精神)と物質原理プラクリティ(根源物質)から世界はできているとする。(13.8)

 プルシャが単なる「精神」でなく、「純粋」を冠せられるのは、まったく物質に関わらない「傍観者」だからである。『サーンキヤ・カーリカー』は、ギーターより成立が遅く、4、5世紀頃の作とされるサーンキヤ学派の聖典であるが、そこでは、純粋精神が、根源物質によって舞台上で繰り広げられる踊りを見る観客にたとえられる。8)


 この点で、サーンキヤの二元論は、デカルトなどの二元論と根本的に異なる。後者の場合、「なぜ、物質である酒を飲むと、心が愉快になるか」をはじめとする多くの心身問題のアポリアを抱え込む。
 しかし、サーンキヤの純粋精神は、物質に一切かかわりをもたない。それ故、物質と関わる感覚、心(意識)、知性(思考機能)、自我意識、などは、すべて純粋精神とは異なるもので、根源物質から派生した「物質のはたらき」とされる。(7.4、13.29)


 純粋精神は、個々人に属する、いわば霊魂である。永遠不滅で、生れることも死ぬこともない。(13.31) 根源物質が展開する現象と、まったく関わりをもたない。これが正しく理解できれば、自己の本体である純粋精神が誰かを殺すとか、殺させるとかということはありえないことが明らかになる。「剣もそれを切らず、火もそれを焼かず、水もそれをぬらさない。」(2.20以下)のである。


 根源物質(プラクリティ)は、純質(サットヴァ)・激質(ラジャス)・暗質(タマス)3つの要素からなる。(14.5) 現象世界のあらゆるもの、いわゆる物質的なものだけでなく、貪欲、怠慢、迷妄などの心の働き(14.5以下)も、信仰のあり方(17.2以下)も、この三種の要素の比率によって、性格づけられている。これらは、すべて根源物質から現れ出てきたものとされる。

 純粋精神が、根源物質とまったく異なるものであることを悟り、これら三要素を超越すれば、苦しみから解放されるという。(14.19、20)


C ブッディ・ヨーガ(知性のヨーガ)

 先に説明したカルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、そして、次に説明するバクティ・ヨーガのいずれのヨーガにおいても、根底で働くのが、「ブッディ・ヨーガ」(知性のヨーガ)である。
 「知性」は、根源物質から現象世界が現れでるとき、最初に生まれるもので、人間の認識・思考 をつかさどる器官で、この知性に心をつなぎとめることが「知性のヨ−ガ」である。

「こだわりを捨て、成功も失敗も等しいものとみて、ヨーガによって行為せよ。ヨーガはすべてのものを“平等に見ること”といわれる。」(2.48) 「行為は、知性のヨーガよりはるかに劣る。知性をよりどころとせよ。結果を動機とするものは哀れである。」(2.49) 「知性ある人は、この世で善悪の行為をともに捨てる。それ故、ヨーガに心をつなぎとめよ。ヨーガは、行為を(結果にこだわらず)、たくみに成し遂げることといわれる。」(2.50)

 そして、このブッディ・ヨーガが、最終的にクリシュナを深く信仰する信者が救われることを保障するバクティ・ヨーガへの橋渡しとして、クリシュナからの贈り物となる。

「常に精神統一をして、私を信愛するものたちには、私のところへ来られるように、知性のヨーガを授けよう。」(10.10) 

D バクティ・ヨーガ (信愛のヨーガ)

 カルマ・ヨーガとジュニャーナ・ヨーガ、ブッディ・ヨーガだけを頼りとして個人の努力によって、「救い」に到達することは、至難の業である。

 カルマ・ヨーガにしたがって結果への関心をもたないで行為することは、世に広まっているカルマ説に対する「まったく行為しないで生きることは身体の維持すら、ままならない」という批判(3.5、8、18.11)と同じような反論を受けることになる。行為はそもそも、結果を求める動機から行われるものなので、現実には不可能に近い。


 そこで、行為を神にささげる祭式として行うことが勧められる(3.9、4.23、24)。祭式行為の結果は、祭式を行う者でなく、祭られる神のものになるからであるが (3.12)、しかし、これも実際には、常にあらゆる行為について、そのような心がけで行為することは簡単ではない。


 クリシュナはいう。「何千もの人のうちの、たまたま一人が修行の完成を目指して努力するが、完成に達した人のうちでも、私を真の意味で知るものは稀である。」(7.3) 

 以上のような紆余曲折を経て、最後の教えとして説かれるのが、人格神クリシュナによる救いである。すなわち、「私を深く信愛して、すべての行為を私にゆだねよ」という「バクティ・ヨーガ」(神への深い信仰である信愛、バクティに心をとめて行為すること)の教えである。

「あらゆるものを平等に見るものは、私の最高の信愛が与えられる。」(18.54) 「その信愛によって私の本性が理解できる。私がどのようなもので、どれほど偉大かがわかる。それが分かれば、即座に私の中に入る。」(18.55)

 そして、ギーターの最後の最後、最終章、第18章の64詩節から、クリシュナの「究極の秘密」として「バクティ・ヨーガ」と、信者の深い信愛に応える神の救済の真髄が説かれる。


 「私に心を注ぎ、私を信愛せよ。私を礼拝し、私を崇敬せよ。お前は必ず私に到るであろう。お前に固く約束する。お前を私は愛するから。」(18.65) 「すべての義務を私にゆだね、私を唯一のより所とせよ。私はお前をすべての罪から解き放とう。くよくよするな。」(18.66)


 ここに、信者の深い信仰に応えて人格神が救済するという宗教思想が、インド思想史上、初めて説かれて、ヒンドゥー教は多様な可能性を秘めた豊な宗教思想の源をもつこととなった。
9)


(6) 翻訳の紹介

 『バガヴァッド・ギーター』の翻訳は多い。上村勝彦訳『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫、1992年)が入手しやすい。
 他に辻直四郎訳(講談社、1970年)、服部正明訳(『ヴェーダ・アヴェスター』世界古典文学全集3、筑摩書房、1967年)所収のもの、宇野惇訳(『バラモン教典・原始仏典』世界の名著1、中央公論社、1969年)所収のもの(部分訳)などがある。


1) 「他の神を祭るものも、実は私を祭っているのである。なぜなら、私はすべての祭を受ける主宰者であるから。」(9.23, 24) 以下、カッコ内の数字は、ギーターの「章 .詩節番号」を表す。  【本文へ】


2) Radhakrishnan, Bhagavadgītā London 1948, p.66. Peter Hill, Fate, Predestination and Human Action in the Mahābhārata, New Delhi, 2001, p.324f.    【本文へ】


3) Richard Garbe, 'BHAGAVAD-GĪTĀ', Encyclopaedia of Religion and Ethics, ed. by James Hastings, Volume II, Arthur-Bunyan, New York, 1926, p.538 right.    【本文へ】


4) 上村勝彦『バガヴァッド・ギーター』(岩波文庫)p.207.    【本文へ】


5) たとえば、Radhakrishnan, 前掲書 p.336は、これを「ローカーヤタ」とし、 Basham, Classical Hinduism, p.96は、「初期大乗仏教」とするように意見は定まらない。        【本文へ】


6) Mircea Eliade, Yoga, Princeton University Press, 1973(3rd Printing), pp.155-157.   【本文へ】


7) 今西順吉「サーンキヤ(哲学)とヨーガ(実修)」『岩波講座東洋思想 インド思想1』1988年、p.138以下参照。    【本文へ】


8) 服部正明訳「サーンキヤ・カーリカー」59、『世界の名著1 バラモン教典・原始仏典』、昭和44年、p.206.参照。Zaehner, Hinduism, Oxford Press, 1962, p.98.    【本文へ】


9) Zaehner, Hinduism, Oxford Press, 1962, p.98.    【本文へ】



2015/07/26改訂

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